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【2限目】究極の質問「好きな本は?」に対処する(『檸檬』/梶井基次郎)


前置き

前回は、初回にもかかわらず、いきなり鎌倉時代の古典を取り上げるという暴走ぶりであったと猛省している。ということで、今回取り上げる本は、明治時代の小説家・梶井基次郎の『檸檬』である。

こちらも、『方丈記』同様、国語の教科書に取り上げられがちな作品で、教科書しばりかと思われるかもしれないが、決してそのような縛りプレイを設けるつもりはなく、次回からは他の趣の作品を取り上げていきたい。

とはいいつつも、今回、『檸檬』を取り上げる趣旨は、別に教科書に載っているからというわけではない(後述のとおり、その要素も少しはある)。今回のテーマは、よくある質問「好きな本は何?」に対する回答として、どの本をあげるのか、ベストなのかということである。

究極の質問「好きな本は何?」

 これは全ての日本人(場合によっては世界中?)が受けたことのある質問で、かつ、その回答に窮したことのあるものと言えるのではないだろうか。私は、年間約120冊の本を読む程度には読書を嗜んでいるので、誰かから趣味を聞かれた際には、読書と答えているが、日本社会のプロトコルであるかのごとく、この後、相手方から100%の確率で繰り出される質問が、「好きな本は何?」なのである。

「好きな本は何?」を自ら引き出してしまっていた自分としては、官僚が想定される質問に対して応答要領を作成しておくように、どう返すべきなのかを必然的に考えるようになった。そして、長い時間をかけて検討した結果、行きついた先が『檸檬』であった。

当然のことながら、好きな本が一つに定まるという人ばかりではない。そして、読書好きであればなおさらである。実際に、自分にとって『檸檬』はお気に入りの小説であることは間違いないが、読書ランキング第1位とはっきり言えるものではなく、ここで言いたいのは、あくまで、「好きな本は何?」に対する回答ランキング第1位だということなのである。

この檸檬にたどり着くまでに紆余曲折があったことは、きっと容易に想像していただけると思う。例えば、奇を衒っているように映らないか、とか、誰も知らない本を上げて、相手方から何とも言えない反応が返ってこないかとか、考えるべき点は少なくない。累次の検討を経て、①ある程度の人が知っていて、②内容が難しすぎないが、③センスの良さや頭の良さを程よくアピールできる、という観点から、『檸檬』に行きついた学術書や新書よりも、小説等の文学作品を上げた方が、芸術性も加点されるのではないかという、邪な気持ちも一役買っている。

それでは、前置きが長くなってしまったが、今回は、どういった点で『檸檬』が「好きな本は何?」の回答としてベストなのかという点を、更なる問いとして当然予想される「どういう点が?」に対するどう返すかという観点も含めて、考えていく。

檸檬

あらすじ

それではまず、『檸檬』の簡単なあらすじを、梶井基次郎に怒られるレベルで省略して書くと以下のような感じである。なお、『檸檬』自体は、10ページ程度の内容で、じっくり読んでも30分あれば十分であるし、青空文庫で無料で読めるので、自分の目で読みたいという声にも応えてくれるところも優れた点である(長い小説を選んでしまうと、復習しようと思っても、それだけで何時間もかかってしまう)。

借金と病気を抱え、憂鬱な思いを抱えている主人公の青年が、何でもない果物屋でふと目についた檸檬を買う。檸檬をえらく気に入った青年は、幸福な気持ちに包まれながら、京の町を散策するが、気づけば、足を運ばなくなっていた丸善にたどり着く。店内に入ると、鬱蒼とした気持ちが蘇り、手に取った画集も、しんどいものに変わっていく。そんな中、青年は、画集を積み上げた上に、檸檬を配置することを思いつく。そして、それを実行に移し、元に戻すことなく店を後にする。青年は、檸檬を爆弾に見立てて、丸善が爆発しているのではないかと、想像しながら歩いていく。

『檸檬』の素晴らしい点① 冒頭

まず冒頭の有名な一節。『檸檬』は青年の心情描写が非常に優れている作品であり、その物語は、青年が鬱屈した思いを抱えているところから始まるのだが、その原因を借金や肺尖カタルに求めず、「えたいの知れない何か」と表現したところに、今後の展開を期待させる効果がある。この「えたいの知れない何か」は「不吉な塊」とも言い換えられている。

えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始圧(おさ)えつけていた。

『檸檬』(新潮文庫)Kindle No.28

意味がよくつかめなくても、とりあえず暗記しておいて、「あの冒頭がいいよね」とかますのも一案

『檸檬』の素晴らしい点② 色彩描写

先ほど、小説を取り上げたのは、芸術点を狙っているからでもあると書いたが、まさにこの色彩描写を取り上げることこそが、その点を際立たせてくれる。

冒頭の暗い、鬱屈したイメージ(色でいうとグレー?)から始まり、そこから色鮮やかなものに青年が引き付けられる描写が続く。

・ 京の町を飛び出して、仙台や長崎に来ているとの錯覚に陥りながら、 
 「想像の絵の具」を塗りつけていく
・ 赤、紫、黄、青の、様々な縞模様を持った花火に惹かれる
・ 色ガラスでできたおはじきや南京玉にも惹かれる

まさに読者の頭の中で、色彩の対比が起こるように、小説は進んでいく

『檸檬』の素晴らしい点③ 果物屋での表現

以前は大好きだった丸善も、青年にとって重苦しい場所となってしまった。そんな青年が最も好きな場所としてあげるのは、決して立派な店ではない果物屋。果物屋に堆く積まれた果物を、梶井基次郎は、青年の目を借りて以下のような表現で描く。

何か華やかな美しい音楽の快速調(アッレグロ)の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面ー的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったという風に果物は並んでいる。

『檸檬』(新潮文庫)Kindle No.82

先ほどの色彩表現にあたる部分でもあるのだが、梶井基次郎の手にかかれば、単に果物屋に並べられた果物も芸術作品へと一変する。是非、果物屋の果物や堆く積まれた何かを見た時には、「梶井基次郎の表現のようだね」と言ってみてほしい。教養人として見られること、請け合いである

『檸檬』の素晴らしい点④ 「つまり」の使い方

文学的な素養のアピールもできるのが、この『檸檬』の良いところでもある。以下は、私が最も好きな一節であるが、「つまり」の使い方が絶妙であると考えている。

つまりはこの重さなんだな。ーその重さこそ常々私が尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さは総ての善いもの総ての美しいものを重量に換算してきた重さであるとか(後略)

『檸檬』(新潮文庫)Kindle No.131

「つまり」は、通常、前述の内容を簡潔にまとめるために使われるのが一般的であろうかと思うが、青年は、何の前置きもなく、いきなり「つまり」を冒頭に使って、つぶやく。したがって、ここでの「つまり」は、青年が、これまでさんざん悩んできたものをすべて集約する効果をもつ「つまり」であり、それが先ほどの檸檬の紡錘形ともつながってくるように読める。そして、この「つまり」を含むつぶやきが、檸檬を手に入れるまでの鬱屈とした青年と、その後の幸福な気持ちに包まれた青年とを橋渡しする役割を果たしているようにも受け取ることができるのではないか。

『檸檬』の素晴らしい点⑤ 檸檬である必然性

この小説のタイトルでもあり、作品の中で、重要な役割を果たす檸檬は、檸檬でなくてはならなかったのか。みかんやリンゴでは駄目であったのか。この点、小説の中には以下のような記述がある。

一体私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから絞り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の格好も。

『檸檬』(新潮文庫)Kindle No.98~115

青年は最後に、丸善で画集を積み上げ、そこに爆弾に見立てた檸檬を置いて、店を出るのだが、暗い色の画集と対比した時の檸檬の色鮮やかさを思えば、黄色である必要性を感じるし、不吉な塊やすべてのもやもやを全て集約していくような形を思えば、紡錘形である必然性を感じる。実際に小説にはこのような一節が出てくる。

その檸檬の色彩はガチャガチャした色の色調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかかっていた。

『檸檬』(新潮文庫)Kindle No.160

この「カーン」という表現の良さも語りだすと止まらないのだが、ピエール・ド・フェルマー宜しく、紙幅の都合で省略することとしたい。

また、以下のような記述もある。

檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった(中略)握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。

『檸檬』(新潮文庫)Kindle No.115

青年は、肺尖カタルの影響で、いつも身体に熱っぽさを抱えているのであるが、そうした青年の体に、檸檬の冷たさは格別で、その意味においては、涼し気な柑橘類が適している気もする。冒頭で、青年が、涼しさを求めて、南京玉を嘗めてみるシーンも描かれている。

「檸檬を選んだところが、絶妙だよね」なんて、作者の評価を勝手に下すことで、頭を良く見せることも可能である。

『檸檬』の素晴らしい点⑥ 檸檬を爆弾と見立てるシーン

最も有名な最後のシーンに触れておく。あらすじでも書いたように、青年は檸檬を爆弾に見立てて、積み上げた画集の上に放置したまま、店を後にするのだが、そこで青年は、ひそかに檸檬が大爆発して、丸善が木っ端みじんになる想像をする。総ての美しいものの重量を換算した檸檬の重さを感じながら、一瞬の間でも幸福な気持ちになれた青年は、それを爆弾として、自分の心に影を落とす丸善を爆破するのである。こうした想像が、青年の心を少しでも楽しませるのであろうし、病気や借金といった過酷な現実の中でも、何とか生きていくことを可能にするのだと思う。

まさに自分は、このノートを予約投稿するときに、青年が爆弾を仕替けた心持ちのように、何かいけないもの(=時限爆弾)をセットして、それがいつか世に解き放たれしまうなんて想像をしている。そのドキドキは空想の域を超えるものではないが、きっと誰しもこのような秘密の空想みたいなものはあると思っていて、そうした隠れた行いを形容する際に、檸檬を用いることもできるのではないかと思っている。

おわりに

これらは『檸檬』の魅力の一部でしかないし、読み手が変われば、この本は何通りもの味わい方ができるものだと思っている。

他方で、以上つらつらと述べてきた『檸檬』の素晴らしい点を頭の片隅に入れておくことで、「好きな本は?」という質問に全く恐れることなく、読書ライフを過ごせる心の準備ができたものと思う。「好きな本は何?」を恐れて、読書が趣味であると公言できなかった方々を救い、ひいては、日本の読書人口に貢献する方途だと思っている。

ちなみに梶井基次郎の作品である『桜の樹の下には』も名著であるので、こちらもどこかで取り上げたいと思う。


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