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【劇場版レヴュースタァライト】新作劇場版を踏まえた再生讃美曲の解釈について【ネタバレ感想】

開催中のアニサマ2021にて、再生讃美曲と私たちはもう舞台の上をフル尺で演奏され、さらに色々と派手なステージ演出もあったということを終わった後に知った(情報社会に取り残されたオタク)。

Twitter等で垣間見るにかなり盛り上がったらしく、うおおおおお見てぇ~!!!となったが、とくに配信等もないため、ブルーレイが発売されるまでは現状すぐに見る手段がない(ひょっとしたら調べたらあるのかもしれんが)。そのため、完全にはだしのゲンの被弾ボイスになっている。ギギギギギ…

そこで鬱憤晴らしというわけでもないが、盛り上がっているようだし、それならばということで、劇場版を何度か視聴したことで感じた文脈などを乗せた、再生産劇場版「ロンドロンドロンド」の主題歌「再生讃美曲」の個人的な解釈について書いていきたい。暇なのか?


選ばなかった過去達へ 
静かに捧ぐ讃美歌を
あの日の私の続き
未来は笑えていますか?

さて、そういうわけで再生讃美曲なわけだが、この曲の根幹を形成する「選ばなかった過去達」に「静かに捧ぐ讃美歌」を、という、ロンドロンドロンドの作中でも引用される部分に関しては、以前ふせったーに投稿した1万5千字ほどの劇場版感想の中で、既に個人的な解釈は書いてある(その文字数はnoteに投稿しろ)

とはいえ、流石にここでそんな文字数を読んでられねーよ!!となるだろうし、ある程度要約すると、ここで言う「選ばなかった過去達」というのは、舞台少女になるために捨てた、あったかもしれない別の人生を指しているというのが自分の解釈だ。アニメ版などでもキリンが語る「普通の女の子としての喜びや楽しみを捨て、舞台に立つ」という、その「普通の人生」のことである。

つまり、この再生讃美曲とは、「舞台に立つために捨てた普通の女の子としての喜びや楽しみ」へと捧げる歌であり、そうして捨て去った喜びや楽しみが「あの日の私の続きは、そうして選んだ未来、舞台に立つための人生で、笑えていますか?」と今の自分に問いかけているわけである。

あまりに不確かな可能性を 
追いかけてあの子は
何を燃やして 生まれ変わる

この辺りはふせったーでも触れたが、劇場版において念入りに描かれる華恋の過去回想は、まさしくそうした「選ばなかった過去達」の描写であり、そのために華恋の周辺の人物、幼少期に共にキラミラを遊んだ友人や、放課後にファストフード店で過ごす友人たちといった、舞台に立つために日々をレッスンに費やさなければいくらでも享受できたであろう「普通の生活」が描かれる。

そしてその生活に登場した幼少期の華恋やその周辺人物たち、そして過去回想の舞台セットがどうなるかと言えば、愛城華恋の再生産シーンにて彼女を復活させるための燃料して燃やされる。

つまるところ、「何を燃やして生まれ変わる」と問われている、この歌詞における燃料は「選ばなかった過去達」であり、かつそうして前に進むための原動力自体が、舞台少女の情熱というわけだ。


ああ 私たちは何者でもない 
夜明け前のほんのひととき
幸せよ、君はいずこに 
それが何か分からなくても
例えばそれがエデンの果実でも

さて、そうして未来へ進むためにあったかもしれない過去を燃やし、前へと進んでいく舞台少女たちだが、とはいえ彼女たちもまだまだ未分化の存在であり、未来はまだまだ無数に存在している(完成された存在ならば、燃やして追いかける可能性も確かになってしまう)

そうした彼女たちの存在の未分化さと、同時にそれがいつか終わってしまう儚いものであることを強調するのが、この部分の歌詞「私たちは何者でもない 夜明け前のひととき」だろう。

劇場版にて、第101回スタァライトの脚本にある台詞、決起集会で引用されるセリフ、「今こそ塔を降りる時」に代表される数々のセリフは、劇場版のメインテーマそのものだった。
ただ、ここで引用されなかったが、脚本の中にある文章として、個人的に注目したいものがある。それは、雨宮さんが部屋の中で書き上げられなかったことを嘆くシーンでさらっと映る原稿、その最後の方に書いてある「日が昇り星の灯りが消えていく。夜の終わり」というような、情景説明の一文だ。

戯曲スタァライトにおいて、星摘みは夜の奇跡と表現される。しかし、それは裏を返せば夜が明ければその奇跡は終わってしまうというわけだし、同時に星を主題とした「スタァライト」という物語の「終わり」として、夜明けを選ぶというのは素晴らしいチョイスだろう。実際、アニメ版における星摘みのレヴューでも、舞台の上で演じる二人を昇る朝日が照らしていた。

また、劇場版のポスターを見ても、ロンドロンドロンドは夜明け前の薄明の空、新作劇場版の初報ポスターは朝焼け、上映予告のポスターは昇る朝日、そして最終版のポスターは青空と、時系列を反映したようなものになっている印象がある。

夜明け前

朝焼け

わかりませんね

舞台の上2

夜から夜明け前へ、そして朝焼けを経て日が昇り、朝が来る、という変化は、刻々と過ぎていく時間の経過を否応なしに表す。そしてこの夜明けという要素は、劇場版スタァライト本編におけるレヴューの演出でも踏まえられていた。
まひるとひかりの競演のレヴューは開会式から始まるが、それは遠景の花火の絵を見れば分かるように、夜(という形の舞台演出)に始まる。実際、照明で照らされた競技場は明るかったが、雰囲気が一変し照明が消えた直後には、真っ暗になった。そして、レヴューが進みまひるがひかりへとメダルを授与し、次の舞台へと進んでいく背中を押し、舞台で生きると宣誓する場面では、その空は輝く朝焼けの空となっていた(ぶっちゃけ最初は夕焼け空と勘違いしていたのはジョジョにも言えん秘密よ)。
そしてスーパースタァスペクタクル、最後のセリフもまた、夜明けの紫色の空から始まり、そして登る太陽が照らす夜明けの空の下で華恋の列車は再生産され、そして東京タワーが折れた時、外から差し込む朝日の光は眩しくひかりの髪飾りを照らす。そうして華恋とひかりが歩き出すころには、空は完全に青く澄み渡った「夜の終わり」となっていた。

【予告編】劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト - YouTube - Google Chrome 2021_07_17 0_01_48

ろーどしょう

つまるところ、劇場版スタァライトは「夜明け前のほんのひととき」である舞台少女たちが、そのひとときが終わる卒業というイベントに向けて、それぞれの想い残しを清算して夜明けの空へと歩いていくものだった。そうして幸せが何か分からなくても進む彼女たちが食す「エデンの果実」なわけだが、これは劇場版のトマト云々というよりは、どちらかといえばエデンの果実を食すことが「楽園を去る」ことに繋がるという文脈の方が大きいだろう。つまるところ、夜明け前のひとときは終わり、それまでモラトリアムで守られていた時間から旅立っていく「卒業」の文脈、大場ななを軸にして考えるならば、舞台少女たちを守る「再演」から未来を目指して旅立っていく舞台少女たちの姿であり、転じては舞台のキラめきに魅せられ、己を燃やして何度弾けようとも再び立ち上がって進んでいく、舞台少女の壮絶な生きざまという形で捉えると、ここもしっくりくる。

普通の人生を燃やし、舞台の世界に立つために何度でも生まれ変わる。そうして夜明けの空に楽園を飛び出し、足から血を流すような苦難の道へと進んでいく、まだ何物でもない未分化な少女たち。再生賛美曲は、そんな舞台少女たちの姿を高らかに歌い上げる。

一方で、そうしたキラめきに目を焼かれ、それを繋ぎとめようとし、そして劇場版においてはおやつの時間を終わらせ、彼女たちが旅立てるように一役買った少女もいる。再生讃美曲は舞台少女の歌であるが、同時にそのいつか終わる輝きに「だから眩しい」と目を焼かれた、大場ななの歌でもあるわけだ。

だから眩しい

通り過ぎる束の間を 
ここに留めて 讃美歌よ
あまりに遥か遠い星を目指して 
裸足で硝子の上を歩くかのよう

ああ私たちは一つも知らない 
それがやがて終わることも
幸せよ、君はいずこに 
この願いは合っていますか?

傷つき迷ったって立ち上がる
それが眩しい

少女よ少女、いつかロンドは終わる、と語られるように、この辺りは大場ななの再演とその終わりを描くパートという意味合いが強いが、同時に「幸せよ、君はいずこに この願いは合っていますか?」という、序盤の「未来は笑えていますか?」に応える、というよりは問いを返すような形の歌詞があるのも興味深い。

序盤の歌詞は選ばなかった過去、普通の喜びや幸せからの「俺を置いていったわけやけど、お前はそれで満足しとるんか?あ?」というクエスチョンだった。
一方、それに対する回答は「幸せじゃボケ!!!!!」というような威勢のいいものではなく、「やいやい、幸せちゃんよ、どこにおるか知らんけども俺は傷つき迷いながらも今も進んでるよ、つっても進む道が合ってるかは知らんけど。どう思う?」という、質問に対して質問で返す形式になっている。

質問

質問2

そういう意味では自分の選択に明確な答えがない、自信がない、と取れなくもないが、個人的にはここは「自分でも分からないけど進んでしまう」というがむしゃらさ、若さが表れているという印象だ。
実際、アニメ版のオープニングである星のダイアローグでも「あの頃には戻れない、何も知らなかった日々 胸を刺す衝撃を浴びてしまったから」という、「なっちまったもんはしょーがねーじゃん」というある種の開き直ったテンションなわけだし、基本的に舞台のキラめきに魅了された以上は、自分でも分からないけどとにかく進みたい、星を掴みたいという原動力に突き動かされるのが舞台少女の性質であり、そこには理屈はないのだろう。コワ~。


そうして大場ななの舞台少女への想いと、舞台少女の未来へ歩む力強い意思を経て、曲はボヘミアンラプソディをリスペクトした転調で一気に雰囲気が変わる。ここクッソすき(再生讃美曲の仮タイトル、大場ななのボヘミアンラプソディだったらしいね)

(どうでもいいけどサカナクションのナイトフィッシングイズグッドとか目が明く藍色もボヘミアンラプソディリスペクトの構成でいいよね)(さっきから何の話?)


少々話が逸れた。再生賛美曲に戻ろう。

太古の土金に染める稲穂の群れ
鳥のようにらんと鳴く竪琴
聖夜に降る大粒の粉雪になり
海の底にしんと眠る真珠となる

そう 遥か遠い惑星(ほし)の息
それら全て私


さて、ここでは稲穂だの竪琴だの粉雪だの真珠だの、様々なものを詩情豊かに表現した上で、それらを「遥か遠い惑星(ほし)の息」と語り、「それら全て私」と結んでいる。

この「遥か遠い惑星(ほし)」は、その前の歌詞、「あまりに遥か遠い星を目指して 裸足で硝子の上を歩くかのよう」の中で、漢字こそ違えど同じ読みの遥か遠い星というワードとして登場している。つまり、ここで語られる金色の稲穂、らんと鳴く竪琴、大粒の粉雪やしんと眠る真珠は、舞台少女たちが目指す星そのものであり、同時に「粉雪になり」「真珠となる」といった対象への同化、また「それら全て私」と語るように、未分化な夜明け前の彼女たちが舞台の上でなるのかもしれない役、立つかもしれない舞台を歌い上げているのだろう。

それを強調するように、直後の歌詞でも未分化な舞台少女の可能性が歌われている

選ばなかった過去たちへ 静かに捧ぐ讃美歌

『こぼれていく未来が あの子のキラめき』
あくまでも仮定

「こぼれていく未来」というワードで思い出すのは、劇場版のラストにおいて、華恋の胸からあふれ出し、東京タワーから空へと噴出していた、無数のポジション・ゼロ、舞台そのもののキラめきだ。舞台少女は未分化な「仮定」の存在であり、それ故に何者にでもなれる。そうした未来そのものが愛城華恋、ひいては舞台少女のキラめきであり、過去の約束に囚われたそれを空へと解き放ったのが劇場版におけるラストシーンだった。

いつか誰かその言葉で
その温度で私を救うの
廻り廻る

ここはゴリゴリの大場なな私情パート。


ああ 私たちは今 何処へだって
夢を宿し行ける

ああ私たちは何者でもない
夜明け前のほんのひととき

幸せよ、君はいずこに 
それが何か分からなくても
例えばそれがエデンの果実でも

さて、こうして見ると再生賛美曲は、未分化の夜明け前の存在であるが故に可能性という名のキラめきを宿して目指すべき舞台を目指し力強く進んでいく舞台少女を賛美する曲であり、そうした彼女たちの儚くも眩い輝きを美しく描きあげた曲だからこそ、合間合間に挟まれる大場ななーーーいつか消えゆく舞台少女のキラめきそのものに魅力された舞台少女ーーーの独白によって、この曲は大場ななの曲としても、極めて高い強度があるわけだ。

だから眩しい



さて、こうして歌詞を整理したわけだが、この時点で既に圧倒的な強度を誇るこの曲、実は歌詞の部分以外、コーラスにも圧倒的なパワーを隠し持っている。最後にそれについて触れていきたい。まず、言及したいのは

そう 遥か遠い惑星の息
それら全て私

という、舞台少女の無限の可能性と目指すはるか先の舞台、「星」を語ったパートの裏で流れる、舞台少女たちのコーラスだ。

歌と被ってしまっている部分があるために少々聞き取り辛いが、よくよく聞くとこのパートのコーラスは、次のような英語の歌詞となっている

someday someday 
hope we are star

we are
someday someday

これを訳すると「いつか、いつか、私たちが星になれることを願っています。私たちは、いつか、いつか」といったところだろう。

つまるところ、このパートの歌詞で語られる無数の可能性を秘めた星、それになれますように。という願いを歌ったコーラスが、「遥か遠い惑星の息、それら全て私」という歌詞の裏で流れているわけだ。

これだけでもバックコーラスで歌詞を重層的に補強する非常に素晴らしいものなのだが、この「someday」が二つならんだ「いつかいつか、星になれますように」という文章、これが極めて重要なのだ。

劇場版スタァライトの最後のセリフにおけるレヴュー曲、「スーパースタァスペクタクル」。曲のタイトル自体が星々が織り成す景観というこの歌だが、実はこの曲と、アニメ版のオープニングである「星のダイアローグ」には、いくつか共通した歌詞がある。その一つが「いつかいつか」という枕詞を置いた、空へと届くようにという願いだ。

(スーパースタァスペクタクル)
星は 何度 弾けるだろう
ようこそ私 ポジションゼロへ
いつか いつか 届きますように 空へ
(星のダイアローグ)
いつかいつか 空に届きますように
今は 今は なんでもない私だけど

アニメ版のオープニングと劇場版、それぞれを象徴する曲に登場する「いつか いつか」という、未来への願いを込めたワード。それが、両者を繋ぐ再生産劇場版ロンドロンドロンドの中で、未分化な舞台少女たちが手を伸ばす星を歌ったパートのバックコーラスとして「someday someday, hope we are star」、すなわち「いつかいつか星になれますように」と歌われている。

「いつかいつか 空に届きますように」
「いつかいつか 星になれますように」
「いつかいつか 届きますように 空に」

アニメ版、再生産総集編、そして新作劇場版と、3つの作品を貫いて歌われる彼方の空へと至り、輝く星となりたいという「願い」。こうした未来への想い、舞台少女を突き動かす情熱こそが、レヴュースタァライトという作品を貫く大原則、舞台少女の本能そのものとして補強される。


そして、最後にもう一つ、触れたいものがある。

それは、「someday someday, hope we are star」のコーラスの後、「選ばなかった過去達へ 静かに捧ぐ讃美歌を」の部分で流れる、讃美歌風の合唱コーラスで歌われる「ア・エ・イ・オ・ウ」というコーラスだ。

「aeiou」。それは、発声練習で用いられる母音だ。舞台に立つ少女たちが、いつかスタァとなるため、遥か遠い星へと至るために、レッスンを繰り返す日々の中で紡いでいく、透き通った響き。それこそがこの「選ばなかった過去達へ」の後ろに配置された、演劇という世界、舞台という彼女たちの進み道そのものを象徴するコーラスとなっている。

普通の少女としての人生、選ばなかった過去達を燃やし、いつかいつか、星となるために進む少女たち。

そんな彼女たちが過去へと捧ぐのは、自分たちの選んだ道、星へと至る道を、明日へと向かって今日も歩いているよ、というメッセージ。

彼女たちの奏でるコーラス、未来へと歩むためのアエイオウという発声練習、それこそが、選ばなかった過去達へと捧げる讃美歌そのものなのではないだろうか。


だからーーー眩しい。

このように、再生讃美曲は選ばなかった過去達を溶鉱炉へ投じ、未分化な未来へと「再生」された舞台少女たちの可能性を高らかに讃美する曲であり、そうして明日へと進んでいく彼女たちの姿そのものが、燃料として燃やしてきた選ばなかった過去達へと捧げる讃美歌であり、そして讃美歌の合唱コーラスの歌詞を発声練習にする、という天才的な発想で曲に舞台の文脈を与えまくった上で、そうしてバチバチに上げまくった舞台少女の美しさと儚さを大場ななの「だから眩しい」という言葉で綺麗にまとめあげたものである…というのが、劇場版を踏まえた自分の再生讃美曲の解釈である。実際のところは分からないし、他にも人によってさまざまな解釈があるだろうが、自分としてはこういった形で解釈するのが一番ストンと通った形になった。

まあ、それはそれとして。

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