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【劇場版レヴュースタァライト】狩りのレヴューについて【ネタバレ感想】

劇場版・少女歌劇レヴュースタァライトが公開されて2か月近く経過し、先日は劇中曲CDが発売されるなどひと段落ついた感もあるが、それはそれとして未だに自分はこの作品に完全に脳をやられており、まだしぶとく上映してくれている映画館に電車を乗り継いで通ってはボロボロ泣き、家で劇中曲CDを聞き返してボロボロ泣き、さらに寝る前などにふと作中シーンを思い返してボロボロ泣いたりするぐらい刺さってしまい、自分でもちょっとヤバイのでは?と思っている。

たつあに

そこでどうにかして外部出力しておくことで一旦自分の情緒を整理しておきたいと考え、ふせったーに長文感想を書いたりしていたのだが、これも触れたくなるポイントが多すぎて無限に膨大化してしまい、なんとか収集を付けるためにメイン軸となる華恋回りの話を中心にすることでなんとか1万5千字程度にまとめられたものの(本当にまとまってるか?)、それ故に各レヴューなどに関する言及があまりできず、一番書きたかった大場なな・星見純那周りの話をあまり出来ないという形になってしまった。そこで、改めてこの二人に関する感想を書くことにしたわけである。暇なのか?

↓ふせったーに投稿した感想。今思えばnoteを使えばよかったのでは…?


1.【狩りのレヴューに至るまで】

さて、そういうわけで大場ななと星見純那である。この二人、特に大場ななに関しては、アニメ版を視聴した際に最も印象に残ったキャラクターだった。実際、ラスボスでも主人公でもないキャラクターが暁美ほむら枠(暁美ほむら枠って何?)として1話丸々使って物語位置エネルギーをガツンと溜め、その上で主人公コンビ2人と正面から激突し、それはそれとして物語終盤のちょっと前くらいに憑き物を落とされてメインキャラクターの一人として収まる、というキャラクター造形は個人的に相当なインパクトがあった。加えてその執着の内容や、そこからの解放の過程での星見純那との対話など、とにもかくにもキャラクター強度が高く、そこに加えてポン刀2本を使った格好いい戦闘スタイル、みんなのお母さんというキャラクター性、2年坊にしてはタッパあるっちゃ~~~っな恵まれた体躯と、そこから繰り出される素晴らしく伸びる声に舞台全体を見渡せる広い視野といった舞台少女としての圧倒的才能、そして「ループしているから最強」なのではなく「最強だからループを維持できる」という無体さで、非常にキャラクターとして印象に残った。

たっぱ

そして、その大場ななの圧倒的な力と執着を強調することで、同時にその執着の要因となるキラめきを持つ舞台少女、星見純那の味わいもまた際限なく高まる。そもそもは序盤で主人公と2度対決し、そのまま破れてしまうというある種の当て馬的な登場の仕方をする彼女ではあるが、そうしたアンダードッグ的な立ち位置を逆に活かし、自分の星を掴むために必死に手を伸ばす努力家委員長キャラクターとしての描写を強くし、その上で過去の再演に囚われ、停滞することを望む大場ななと絡めることで、より前へ前へと進もうとする彼女のキャラクター性が活きるという、非常に素晴らしい関係性として、アニメ版時代からこの二人は非常に印象に残っていた。

そういうわけで、誰よりもガツガツと前を向き、自分の星を掴むために前に進むのが星見純那というキャラクターの根幹部分だったわけだが、劇場版においてはこのキャラクター性が逆向きの形で描かれることになる。冒頭の進路指導シーン、登場するキャラクターの中で唯一、一般大学に進学するという舞台から離れる選択を見せ、その直後にも遥かなるエルドラドのシーンにおいてもあっさりと華恋に舞台の中心を譲ってしまい、そのまま迫真の演技に気圧されてしまうなど、冒頭から執拗に情けない様子が描かれる。

なお、このシーンでは本来華恋も同じく進むべき道を失った状態ではあるはずなのだが、道を見失い、去っていく友人に追いすがるアレハンドラの役が本人の心境に合致した役だったために、ある種のメソッド演技のような状態となり、それが圧倒的な演技に繋がっていたのではないだろうか。それとは逆に、純那は遥かなるエルドラドを目指して旅立っていくサルバトーレの役を威勢よく演じてはいるが、その内心はむしろ旅立ちとは反対の心境であり、そのため言葉だけで演技に身が入らず、あっさりと華恋に気圧されてしまったと考えれる。その華恋は華恋で拍手によって初めて観客を意識するような体たらくと、双方ともに褒められた演技ではなく、周囲も心配そうな視線を送り、大場ななもオイオイオイ死んでるわこいつらになっている。
このように、芝居における二人の演じる役柄、その演技の違い、周囲の反応などからキャラクターの心境を言葉で語らずにきっちり描きつつ、進路指導シーンを華恋の自主退学で〆る多くは語らない演出がバチクソに決まりまくったこのシーン、演劇を作劇に活かした使い方が非常に上手くて、めちゃくちゃ好き。(話逸れまくっとるぞ!)

【予告編】劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト - YouTube - Google Chrome 2021_07_18 4_44_38

そうした情けない描写が続く一方で、新国立でのへの質問メモはがっつりと書く未練たらたらっぷり、加えて後に作中でも引用される今は今はというセリフの連続、そして皆殺しのレヴューにおいては大場ななが3回も仕掛けてきた即興劇にまるで反応できず、挙句の果てに自分たちはまだ未成年、という覚悟の決まり切っていない感マックスのセリフで答えてしまうと、鑑賞2周目の大場なな目線になった後だと情けない描写があまりにもガロンガロン連発されるの、気が狂う。

そうして情けない純那の姿を描く一方で、派手に他の舞台少女を相手取って暴れまくり活躍する大場ななの姿を観客に見せまくることで、否が応にも二人の圧倒的に力量差を感じさせた上で始まるのが、大場映画株式会社の迫真ハラキリショーだ。


2.【物語、映像、音楽 様々な文脈を乗せた逆転】

初手から西條クロディーヌに今は今はと言葉を重ねる星見純那の電車内盗撮映像という多分訴えられたら負けるタイプの自主製作映画が繰り出され、その純那の言葉に大場ななの口上が重ねられる。

今は今はと言い訳重ね 生き恥晒した醜い果実
星の遠きに望みを絶たれ 君 死にたもうことなかれ

99期生 大場なな
熟れて堕ちゆく運命なら 今君に 美しい最期を

死にたもうことなかれと言った直後に美しい最期をと言ったりと大分危ない気配がするが、ここで特に重要なのが「星の遠きに望みを絶たれ」という部分。これは言うまでもないがアニメ版の星見純那の口上に呼応するものだろう。

人にはさだめの 星がある きら星 明け星 流れ星
己の星は 見えずとも 見上げる私は 今日限り

99期生 星見純那 
掴んでみせます 自分星!

アニメ版ではガツガツと上を向いて歩ていることを強調し、9話の大場ななの対話シーンでも「星見純那自身の言葉」として引用されるこの口上だが、ここで「自分の星を掴んで見せる」と語る純那の口上に対して「星の遠きに望みを絶たれ」という口上をぶつけることで、劇場版において星見純那がどこかで気弱になっていることに関して、アニメ版と劇場版の間で「圧倒的な目標の高さに心が折れてしまった」ということが言外に示され、自然と大場ななが星見純那に対して序盤から失望した様子だった理由がここで明確に示される。

しょうこう

そうして自害を求める大場ななに対して、純那は武器である弓矢を構え、狩人として大場ななを狩ろうとする。かくして星見純那と大場ななの舞台、狩りのレヴューが始まる。ガオッ!(一般的な野獣のイメージ)

さあその牙抜きましょう 逃げ惑う虎の子
数多の星が道標となれば 私は舞台へ 流れ着く

多くの偉人の言葉に力を借りて純那は矢を放つが、その際に流れる歌詞は「私は舞台へ流れ着く」という、自ら歩いていくものとは違う消極的なものだ。そもそも逃げ惑う虎の子を狩り牙を抜く、と息巻いてはいても、実際に牙を抜かれて腑抜け、舞台から逃げているのは純那であるため、ここもやはり遥かなるエルドラドと同様に彼女の内心とは反したものとなっている。案の定、大場ななは射かけられる無数の矢を避け、無数の星を切り捨てて純那を圧倒し、純那の上に完全にマウントポジションを取り、お得意の写真撮影と洒落込むわけだが、その映し出された写真も真っ黒で何も映らない=純那にはもう光源たるキラめきがない、という描写がされるなど、レヴューの前半でも、徹底的に大場ななによる蹂躙が描かれる。

しかし、そうして一方的にやりこめられ、涙を流す純那を後目に聖翔音楽学園を模したセットそのものを檻として切り捨てて大場ななは去ろうとするが、しかし2度目の切腹強要で押し付けられた刀を純那が手に取り、「他人の言葉じゃ――駄目!」と立ち上がることで、ようやく戦いの流れが変わる。

人にはさだめの星あれど 届かぬ足りぬはもう飽きた
足掻いて 藻掻いて 主役を食らう

99代生徒会長 星見純那
殺してみせろよ 大場なな!!

自らのアニメ版の口上を受け継ぎつつも、より攻撃的にガツガツと前を向き、さらに大場ななに向って直接的に名指しで喧嘩を売る口上を皮切りに、ここからの覚醒した純那の攻勢は序盤からのフリもあって単体で見てもカタルシス抜群の逆転のシーンなのだが、それに輪をかけて盛り上げるのが流れに呼応して曲調を変え、また歌詞も作中と細かくリンクされた劇中曲だ。そもそもレヴュースタァライトという作品はフィルムスコアリングで作曲した楽曲を、さらに映像に合わせて歌詞を付けていくという手の込んだ作曲形式を取っているため、楽曲と歌詞、映像のリンクが極めて高い。そのため、アニメ版の時点からRE:CREATEなど劇中シーンとリンクした素晴らしい楽曲が多々あるのだが、本作はさらにそれがクオリティアップし、セリフと曲の歌詞が直接的に掛け合いとなっていたりと、文字通り作中のセリフと同じくらい、曲の歌詞も重要となっている。なので、歌詞を把握して頭に入れて鑑賞することで、出力が跳ね上がるのだ。なので、劇中曲CDが発売され、歌詞を頭に入れてから鑑賞することで、さらにここからの破壊力が跳ね上がる。

スコアリング


もちろん劇中曲CDが販売される前も頑張って歌詞を覚えようとしていた。例えば、大場ななが星見純那を煽り倒すシーンの歌詞、

借りた台詞  こなすだけは
お前の星は 屑星だ

という部分なんかは、最初「お前の星は」を「オンマイロード」とか言っているのかな~とのほほんとしていたら、何度か鑑賞する中で「お前…まさか…お前の星は屑星だ!」って言ってんの!!!???と気づき、ビビり倒した思い出がある。いや流石に言っていいことと悪いことあるって!

そうして立ち上がった純那が舞台を変えて何度も何度も大場ななに切りかかる、「まだまだ此処から 歩みを止めない」からの対決のシーン、過剰に照らされスモークが焚かれた舞台の上で星見純那が徐々に大場ななを押し込んでいく場面においても、その後ろで歌い上げる互いのメロディの絡みにガッツリとネタが仕込まれており、

我が道ゆめゆめ諦める莫れ
煙る景色 果てる夢 夢に縋り霞みを喰え

という、二人の歌詞が「夢」という部分でのみメロディが重なる仕込みの辺りは、非常にパワーがある。さらに展開に合わせて曲調の展開もまたさらに激しく変わり、星見純那に大場ななが気圧されるシーンからの一連の歌詞は、星見純那が舞台ポジションゼロへと至り、そこからさらに一歩前に踏み超えていく展開に合わせて

まだまだ此処から 殺して見せろって!!ねえ!!
伊達に何度も見上げてないわ 限界も零も 踏み越えていく

と勇ましく歌詞が続いていき、スポットライトを使った転換の演出、歌詞と映像のリンク、曲調の変化、序盤から続いていた圧倒的な大場なな無双に対して、ようやく調子を取り戻してくれた星見純那が逆転するカタルシスも相まって、非常にインパクトがある。そしてその直後のシーン、CDで歌詞を確認することでお前そんなこと歌ってたの!!???とビビり散らした最強ポイント。

あなた今まで何 見てたの?

…よりによって何度も何度も再演を繰り返し、「ずっと私たちの事を見ててくれたのね。ずっと、一人で」という言葉をかけられた大場ななに叩きつける言葉が、よりによって「お前今まで俺の何見とったねん!ゴラ!」なの、煽り全一~~~となって気が狂う。狂った(完了形)。そして、なんでこんなスゲェ歌詞をCD発売されるまで気づかなかったんだろうな…いやまあ台詞被ってたからだろうけど、などと考えながら、歌詞を頭に入れて改めて鑑賞し、実際にこの部分に被っているセリフを確認してきた。それがこれ。

目が眩んでるのは貴方の方よ!

ギ、ギ、ギ、ギェェェェ~~~!!!!!!!お前、これ、歌詞とセリフが完全にリンクしとるやんけ!!!!今まで何見てたの?と歌詞で聞きつつ、見れてなかった理由としてセリフで「目が眩んでいたから」を思いっきり言ってるやんけ!!!眩しすぎて何も見えないくせに!とか言っといて、眩しすぎて何も見えてないの、大場なな、お前や!!!!お前~~~~!!!!!!

と、このように歌詞とセリフ、場面がリンクしたフィルムスコアリングの利点を圧倒的に活かした文脈パワーの横綱相撲が続くわけだが、その上で眩しい主役星見純那がその刀を振るうラストシーンに至り、

これが私の 折れないペンよ
時にペンより 刀よりも強く

と、「ペン:力:刀」、:(コロン)という「つまり」や「すなわち」を意味する句読点でペンと力と刀で結んだ、「ペンはすなわち星見純那の力であり、すなわち星見純那の刀である」というレヴュー曲のタイトルを回収したパーフェクトな歌詞を入れ、決して折れないそのキラめきを取り戻した星見純那の一撃に被せて叩きつけてくるの、あまりにも天才すぎてビビる。

このように、単体でも十二分に強いレヴューシーンにさらに楽曲の力が合わさることで、とんでもない出力になっているのが本作なわけだが、そこでさらに作中に映るモチーフや、さらっと映る背景の小道具、そういったものに込められた意味まで摂取し始めると、これがもうとんでもないことになってしまう。最後に、二人の別れのシーンに合わせてそういった細かい部分について触れたい。


3.【水底に沈む写真と塔、そして二人の原点】

レヴュースタァライトという作品において、極めて重要なモチーフとして「塔」の存在がある。タイトルにもなっている戯曲スタァライトは塔を登る少女たちを題材とした物語であり、そのため星摘みの塔、愛城華恋と神楽ひかりの約束を象徴する東京タワーは本作における最重要モチーフとして、夢や目的のシンボルとして何度となく登場する。

この「塔」という要素は劇場版においても多数登場する。東京タワーは当然として、華恋の過去回想シーン、ファストフード店のシーンでは進路の象徴として幾つもの塔のミニチュアやコーヒーフレッシュのタワーが描かれるし、他の舞台少女のレヴューシーンにおいても、五重の塔や聖火台、十字架などにも塔が重ねられる(ライトアップされた京都で五重の塔の中にスーッと浮かび上がる星摘みの塔、一回気づくと死ぬほど面白すぎる)など、作中において目指すべき目標、彼方の星へと至るための道、あるいは横に倒れることで想い人の元へ向かう橋となるなど、様々な象徴として使われている。

そして当然ながら、この「塔」は狩りのレヴューにおいても幾つかの場面で登場している。まず、星摘みの塔そのものが聖翔音楽学園を模した舞台の上に鎮座し、輝くライトとして星見純那を背後から照らしている。

とうらいと

また二人が切り結ぶスモークが焚かれた舞台を照らす無数の照明もまた、逆さまになった星摘みの塔のデザインをしている。

とうらいと2

そうした無数の星摘みの塔の照明を切り捨て、星見純那が大場ななの用意した舞台を破壊するというのがこのレヴューのカタルシスなのだが、もう一つ、個人的にこれは実は塔なのではないか?と感じたポイントが一つある。

狩りのレヴューの最中、激情に任せて大場ななは二人で共に映った写真、夕焼けの空を共に歩く二人の姿を映した写真に刀を勢いよく突き立て、写真の二人を分断する。(いや大場ななが映ってるなら誰が撮ったんだよ)(純那ちゃん、セルフタイマーだから動かないでね~)。そしてその写真は舞台に設置された噴水の水底へと、二人の過去への決別として打ち捨てられる。

しかし、星見純那が大場ななの上掛けを落とし、二人が別々の道を歩いていく場面。そのポジションゼロを象った道のすぐ傍に配置された噴水の上に浮かぶ写真は、水で濡れたことで写真の傷が繋ぎ合わされ、再びくっつく様が描かれる。

これだけでも既に良すぎるのだが、そのくっついたものの傷跡が中央に残る写真、その構図が肝なのだ。大場ななと星見純那が写真の左右で互いに笑い合う姿が後ろから描かれ、その中心には二人を照らす夕焼け空。その夕焼け空に、大場ななが付けた傷跡が1本、スッと通り、写真の中央に線を引いたように残っている。その中央の線が、あたかも夕焼けの空の遥か彼方にそびえ、二人の舞台少女が目指す「塔」のように見えるのだ。さらにこのシーンに重ねるように大場ななが呟く「燃える宝石のようなキラめき、やっと届いた」という独白。これらが合わさることで、この二人が並んでいた写真は、共に舞台少女として星を掴もうと進んでいた、彼女たち二人の輝く虹のような幸福な日々を象る写真として完成し、写真の中央に付けられた傷は、二人がともに目指していた「塔」として完成される。
あの99回聖翔祭、あの目の眩むような輝きに、大場ななはようやく届くことが出来た。いや、既に届いていたのかもしれない。ただ、その眩しさで目が眩み、気づいていなかっただけで。そして、ようやくそのキラめきに届いたからこそ、舞台少女である彼女たちは舞台から降り、次の舞台へと去っていく。

さらに。この写真が沈められた場所にも意味がある。長方形に丸い突出部を付けた形状、聖翔音楽学院を模したセットに付随して設置された意味、そして大場ななにとって、「あの娘への執着」を意味する、何よりも重要な場所。それは何か?

そう、あの写真が沈められた場所は、アニメ版9話において星見純那が大場ななに自らのキラめきを見せつけた、あの聖翔音楽学園の噴水なのだ。

つまり、狩りのレヴューにおいて舞台となった聖翔音楽学園のセットとは、単に第99回聖翔祭に端を発した大場ななの再演への執着を表す舞台などではなく、彼女の目に焼き付けられたあの夜、あの場所、あの時の星見純那の言葉そのものであり、彼女にとって星見純那がもっともキラめき、輝やいていたその瞬間、その大切な舞台そのものだったのだ。そして、その思い出の場所を切腹の舞台として星見純那に自害を迫ったこのレヴューは、星見純那というキラめきに目を焼かれ、その執着のために前に進めなくなった大場ななが、彼女を介錯することで己を閉じ込める学園の想い出という檻を切り捨て、過去を忘れて進んでいくためのものだったのである。

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そもそも本作において描かれるワイルドスクリーンバロックのレヴューは、その多くがアニメ版における一見すると安定した関係性の決着として描かれたものを起点にしている。怨みのレヴューはアニメ版のにおいて去っていく香子を一番傍でその花が咲くのを見たいと言って繋ぎとめた双葉の言葉があったからこそ発生した痴話喧嘩であり、競演のレヴューはまひるが華恋への執着から一人の舞台に生きる存在として覚醒したが故に、華恋のライバルという代役を任せるためにひかりへのエールを込めた舞台となっていた。そして魂のレヴューは二人で共に舞台に立ち、天堂真矢とデュエットを演じることが出来たことで満足してしまった西條クロディーヌが、真矢の舞台人としての覚悟に触れ、それによって自身も覚悟を決めて何度でも挑むというものなっていた。そして、愛城華恋と神楽ひかりもまた、レヴュースタァライトという物語そのものの終着点から前に進むために、最後のセリフを放つことになった。
ならば、大場ななにとってのワイルドスクリーンバロック、その個人的な舞台とは、アニメ版において敗北により再演から降りた彼女の心をその言葉で救った星見純那、その輝く星がキラめきを失っていく、その様こそが耐えがたい苦痛であり、それが前へと進むことを阻む執着だからこそ、彼女の用意した舞台は聖翔音楽学院の噴水広場の夜、あの星見純那が彼女の前でもっとも輝いてたあの瞬間、それを模した舞台の上で星見純那を介錯することだったのではないだろうか?

しかし、星見純那はその介錯のための舞台の中でキラめきを取り戻し、大場ななが用意した一方的な別れの舞台を破壊しつくす。そして、二人はポジションゼロを模した道を通って、それぞれの目指すべき舞台を歩いていく。しかし、このシーンのポジションゼロの中心、二人が背を向けて別れるT字の中心、まさにその場所のすぐ傍らにこそ、あの想い出の噴水が存在するのだ。

星見純那が主役の舞台、大場ななが主役の舞台。それぞれの舞台を目指して歩んでいく二人のその出発地点、そのポジションゼロという「原点」に眠るもの。それはあの夜、二人が言葉をかわしたあの時間そのものであり、その噴水の中には二人が過ごした燃える宝石のようなキラめきの時間、空の果てへと続く彼方の塔を目指して、二人が共に肩を並べて歩んでいた、輝く虹のような幸福な日々を切り取った写真が浮かんでいる。大場ななが再演の果てにようやくたどり着いたその眩しい思い出は、二人がそれぞれの道を歩んでいく出発地点にいつまでも存在し続ける。それは、かつて友の言葉によって救われた少女と、その温度によって友を救った少女、二人の舞台少女が未来を目指して進んでいく道の新たな原点、ポジション・ゼロとなって、二人の背中を支える。それは彼女たちを束縛する執着ではなく、その背中を押す力、踏みだす理由となった。そうして進んでいく道の先で、いつか二人はまた、舞台で出会う。

幕を下ろそう――いつか舞台で、会える。


最後に付け加えると、このnoteのサムネイル画像に使っている画像だが、これは再生産総集編ロンド・ロンド・ロンドの主題歌である、大場ななのボヘミアンラプソディこと再生讃美曲のリリックビデオのワンシーンで、星見純那→大場ななパートの歌詞書き起こしシーンである。なぜこれを使ったか?に関してだが…このシーンの背景、よくよく見て欲しい。一見するとなんだか分からないが、上の方にある縁に着目すると、これが一体何か気づくのではないだろうか。

…いや大場なな、お前マジであの夜の星見純那どんだけ好きなんだよ!!!(あそこの純那ちゃん、めちゃくちゃイケメンだからなぁ~…)

いつか誰かその言葉で   
その温度で私を救うの

泣いちゃった


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