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「好きなことで生きていく」というのは、昨今の「表面だけはキラキラしたYouTuber」のようなGoogleアルゴリズム奴隷のことではなく、本来は「長瀞のそば屋」のことなのである。 #雑記

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むかしから長瀞という町が好きだ。年に数回はおとずれる。埼玉県の秩父方面に位置する「長瀞」という川のある町。川がそのまま町の名前になっていることからも、「川こそがメインディッシュ感」が伝わってくる。実際に行ってみると、その町は「あっ、ほんとうに川一本で発展してきたんやな」という雰囲気を味わうことができる。

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↑駅前のメイン通り。ピークの夏場以外はいつも閑散としている印象がある。だからこそ好きだ。常に山も見えて、空気もうまい。

さて、そんな長瀞には驚くべきことがある。「そば屋」の数である。こだわりのそば屋は「水がいいんじゃあ」と口をそろえて川の近くに店を開くが、長瀞も彼らの候補地のひとつだ。水がいいからそば屋があつまるのか、水がいいからそばを打ちたくなるのかはわからない。

ただ、ほんとうに気になるのは「マジで、そば屋おおすぎね?」ということだ。行けばわかるが、道をあるけばそば屋がある。2歩あるけば1歩はそば屋。駅周辺だけでも、おそらく10〜15店舗ちかくのそば屋がある。

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Googleマップに登録している店舗だけでもこの量である。むかしながらのそば屋が多いので、実際はもしかするとこの倍くらいあるのかもしれない。体感としては、それくらいそば屋があった気がする。

この店の数では、観光ピーク時でもすべてのそば屋が満席になるのは想像できない。なぜ、彼らはそば屋のとなりでそば屋をやるのか。セックスをした後に冷静になって「そば屋のとなりで、そば屋やっちゃダメじゃね?」と、毎晩のように気づいてしまいそうなものである。

答えは簡単だ。彼らは、きっとそばを打ちたいからそばを打っている。べつに売りたいわけではない。あくまで「ついでに」売れたらいいと考えている。そばを打ちたいから打っていて、ついでに「ちょっと売れたらいいな」くらいの気持ちで店をやっているということだ。そば屋に住んでいるというか、家でそばを打っているというイメージに近い。彼らにとってそば打ちは呼吸みたいなもので、彼らにとってのビジネスは「あ、二酸化炭素?使いたいの?勝手にもってけ」くらいのものであろう。

昨今「好きなことで生きていく」というスローガン(?)のようなものが日本中で飽きるほどに唱えられ続けている。このスローガンそのものがYouTube発ということもあり、その代表例として「YouTuber」が挙がることが多い。だが、ほんとうにそうなのだろうか。彼らはほんとうに「好きなことで生きていく」の体現者として、もっとも適切なのだろうか。

ぼくはそうは思わない。実際に現在のほとんどのYouTuberは単なる広告ビジネスと成り下がっている。チャンネル登録者数と、そこから得られる名声に目が眩み、お金の苦労は知らずとも、広告案件では平気で視聴者を騙し、「とくに好きでもないこと」をやることで、ビジネスの拡大を常に狙っている。それに、彼らはGoogleの都合にいつだって振り回される。Googleの機嫌次第で積み上げてきたチャンネルの価値も簡単に抹消される。それに置き去りにされないために、日々彼らは苦悩する。常にご主人の機嫌をうかがう彼らの姿は「Googleアルゴリズムの奴隷」と呼ぶのがもっともふさわしい。(体感的には、登録者10〜20万人以下のチャンネルは楽しそうにやっている印象がある。あくまでスケールを前提にしたチャンネルの話だ)。

その点、長瀞のそば屋はどうだろう。

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"こいつら"は、好きにしか生きていない。そばを食えばわかる。そういう味である。これはパンクロック的な音楽にも似ていて、「あ?黙って聴けよ」という姿勢を受け手に感じさせる心地よい威圧感がある。媚びていない。そもそも媚びてでも売りたかったら、長瀞そば帝国でそば屋を営んだりしないはずだ。

彼らはじぶんだけの世界で戦っている。きっと、となりのそば屋と売り上げを比較して消耗したりなどしていないだろう。ただそばを打つ。打ちたいから打つ。食いたいやつが来れば食わす。いなくても打つ。これこそが「好きなことで生きていく」の真髄である。

だれもが長瀞のそば屋のように生きていけるかと言われれば難しい。彼らのそれは「仙人業」に近くて、到底、人間離れしているからだ。だが、「好きなことで生きていく」とはこういうことである。外観的に見栄えがいいものを追いかけて生きていては、「外観的に見栄えがいいもの」という移り変わりの激しいトレンディな概念に振り回されてしまうだけだろう。そば屋はそばが流行りまいがそばを打つし、もちろん、そばが流行ろうが変わらずにそばを打つ。これがいい。

そういった意味でも、やはり「好きなことで生きていく」よりも、「嫌いなことで生きていかない」ほうが、ずっと実現しやすく現実的だろう。程度の差はあれど、いまあることの一部をやめることは、だれにだって出来る。というわけで、ぼくの本がオススメだ。これがやりたくて記事を書いたわけではない。たまたま話の流れ的に、そんな雰囲気だったからだ。あくまで、たまたまだ!


最後に、この「長瀞のそば屋」的な有料マガジンを購読している「物好きなお前ら」だけに、ちょろっとオマケで「好きなことを見つけるには具体的にどうすればいいのか?」についての話をして終わろうと思う。あくまでぼくがしたい話をするだけだが。

そんな感じで、マガジンを購読すると、ほかの記事が読めたり(月15〜30記事更新)、読者専用のチャットルームに入れたりして楽しいので、いろいろ気になったらどうぞ。


「好きなことを見つけるには具体的にどうすればいいか?」という相談には飽き飽きしていたのだが、そんなときにふとじぶんが自然とやっている有益そうなことを見つけた。

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