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その人を知りたければ「その人がどちら側の人間か」ではなく、その人の持つ「境界線」そのものを知るといい。


ひとが生きていくうえで、どうしても避けられないのが「ひと」である。ひとは生きていくうえで「ひと」を完全に避けることはできない。ひとは一人で生きられないので、どうしても「ひと」に頼る必要がでてきてしまう。それがどんなに不快で億劫だろうと、ひとは完全な一人にはなれないのである。

「ひとと関わる」とは、つまりそのひとを理解しようとする姿勢のことだ。実際にひとのことを完全に理解することも、またできない。が、しかし、その「完全にはできないこと」を、「できるだけやろうとする」という姿勢こそが「ひとと関わる」ということなのである。

相手を完全に理解する必要などはない。そもそも、完全に理解することはできないのだから。ただそれでも、ひとは「完全な理解」を求めてくる。できないことを平気で求めてくる。ひとは理解されたい。理解されることで「いまじぶんが立っているこの世界は、じぶん一人ではないのだ」と思い込みたいのである。

「ひとを理解する」とは、そのひとの立つ世界を見ることである。これを多くのひとは勘違いしている。油断すると、すぐに「その人がどちら側の人間か」ということばかりに気を取られてしまっている。それはつまり、「良いか、悪いか」だとか「賢いか、バカか」だとか「金持ちか、貧困か」だとか「イケメンか、ブスか」などである。

その人を知りたければ「その人がどちら側の人間か」ではなく、その人の持つ「境界線」そのものを知るといい。 それは今例にあげた「良いか、悪いか」などの境界線そのもの。その人がじぶんの中に置いている境界線の「どちら側に立っているか」ではなくて、そもそも一体なにを境界線としてじぶんの中に置いているのかを知るということ。これこそが、その人そのものを最も色濃く表していると言える。

ひとは境界線に支配されている。じぶんの中に引いた境界線の「望ましいほう」にじぶんの身がいつもあるように、決して「望ましくないほう」に陥らないように。人生の多くの時間を、その境界線を見つめて過ごす。

「境界線を見つめるとき、境界線もまたこちらを見つめている」のである。

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