プロ奢ラレヤーの贈与日記①

池袋。西口。ここは、ぼくにとって贈与の場。贈与は関係をつくる。だれかに贈与され、だれかに贈与する。その繰り返し。ここに来ると、贈与がまとわりつく。

おじさんが床に座っている。あらゆる改札と距離をとって。駅の「重心」とも言うべき場所に、おじさんは座りがちだ。単に駅員を避けた結果なのだろうけれど、その分布は興味深い。

「ネコは落ち着く場所を知っている」というが、駅構内の座り込みおじさんも、落ち着く場所を知っている。ひそかな安息の地。そこに座り込み、床に小銭の入った帽子をおいている。

ぼくの贈与には、鉄則がある。「求めていない人には贈与しない」。それは侮辱として認識されることもあるから。だから、ぼくは帽子を置いているおじさんにだけ、話しかける。自販機で温められた350mlの綾鷹を買って、そいつを渡す。受け取ってもらえたら、横に座り込み、聞きたいことを聞くのだ。

150円で買える、新鮮な体験。23年も生きていると、すこしずつなくなっていく。それが池袋にはある。座り込んだおじさんの数だけ、その喜びがある。希望だ。じぶんの人生の長さより、ずっと長いあいだ座り込んでいる。そこに見えるもの。それが150円、そこに少し動きを与えるだけで、買うことができるのだ。

白髪のおじさんは言う。今年はもう知り合いが5人死んだ。外で寝るようになって40年経つ。冬も慣れた。金が入ったら何をするか?70円の酒を飲む。それだけ。じゃなきゃ、金がもったいない。

すごくイイ。知り合いは5人死ぬ。死ぬのである。死なないような気がするけれど。それでも、ひとは死んでいる。そして、ぼくとおじさんは生き残っている。たまたま。逆だったかもしれない。そういうリアリティ。ほかのどんな150円よりも、生きた心地がする。

イイ話を聞けたなら、ぼくは最後に1000円札と、ぼくが飲んだ綾鷹のゴミを置いていく。ほんじゃ、これ捨てといてや、と言い捨てて。関係性とは、そういうものだから。いつか、おじさんのゴミもぼくが捨てるかもしれない。関係性ってのは、お互いのゴミをついでに捨て合うようなものだから。

贈与をすると、文章が湧いてくる。エコノミクスを感じる。贈与というのは、見返りを求めるほどに飢えた状態では上手くいかない。飢えないうちに、余ったゴミを、必要なひとに届ける。飢えてからでは遅いから。

いつもはマガジンに書いている雑多の文章なのだけれど、月末でおかしなことになると思ったから、今回はマガジンに入れずに出してみた。

この駄文を最後まで読んでしまった物好きには、もしかしたらイイかもしれない。これを機に、マガジンを購読してくれたら嬉しい。その698円は、いつか床に置かれた帽子の中に吸い込まれていくだけなのだろうけれど。


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