4/25 「向き合うということはあまりに難しい。」
向き合うということはあまりにも難しい。とくにそれが、深く傷を負うかもしれない、と思わせるものに対しての場合には。
『じつは今日ね、このあと首を吊るんです。』
わたしはこれからも、ひとの最期に向き合っていられるのだろうか。どこかで、壊れてしまうのかもしれない。向き合うことはあまりにも難しい。
自分自身に向き合えないひとのユーモアは痛い。痛々しい。それは、きっと向き合わないために、そして、向き合えない自分自身を隠蔽するために発達したユーモアだからだ。
面白おかしくする。やり過ごす。その繰り返しのなかで、痛々しいほどにユーモアが発達していく。その暗いユーモアが、彼のここまで背負ってきた透明な傷口を、その暗闇に包み込まれた蓄光テープのように明確に浮かび上がらせてくる。痛々しいほどの光だ。
死ぬことを決めた人間に言えることは何一つない。今日、こうしてはじめて会い、はじめて話した彼は、一方的にわたしをよく知っていた。わたしのあらゆる意見を知り、文章や発言として保存し、引用して意見してくれるようなレベルで、わたしをよく知っていた。わたしは彼を知らなかったけれど、その日よく知ることになった。
あらゆる目的性が排除された、雑多なはなしをしていく中で、わたしはたびたび目の前の物語の核心に迫っていく。彷徨い続けているなかで、ふと光が差し込んでくる。入り口や出口から。わたしはそこから這い出して、その物語の持ち主と再会する。手を取り、あらためて「はじめまして。」と挨拶を交わすのだ。
そして彼とわたしの場合は、再会することができた。そして、彼はそれまでのユーモアとは裏腹に、おしぼりを頬にあて涙を拭いた。1年半ぶりだという生ビールをおかわりしてから、しばらく塞ぎ込んでから言った。
「ぜんぜん、言うつもりはなかったんですけどね。ほんとうに、うん。ただ、会いにきたかっただけなんです。言うつもりはなかった。あの、勿体ぶってるわけじゃないんです。ただ、言葉にしようとすると詰まってしまって。」
わたしはじっと彼の首の傾きをみつめながら、しずかに軽く相槌をした。そこに大きな沈黙と、細長い生ビールがあらわれた。
「じつは今日ね、このあと首を吊るんです。」
「そっか。やっぱり。」もちろん分かっていたわけではない。しかし、わたしの無意識の感覚では「やっぱり。」だったのだ。
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