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【芸術と価格】アーティストは自ら作品に価格をつけられるか

創るプロフェッショナルのアーティストはしかし、自身の作品に値段をつけられない。セールスはおろか、その作品価値を価格で表現することを選べない。このトピックでは、「作品に価格をつけるという時代」を、知ることができる。クライアントに対しては譲れないクオリティーやスケジュールを闘い抜くくせに実はギャラの交渉すらできないメジャーアーティストの、ために書く。

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アーティスト情報局:太一監督
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監督がスタジオから発する生存の記
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『 メジャーなアーティストは、価格交渉素人 』

名を馳せ、自らのチームを率いる業界のメジャーアーティスト。オーラを放つ彼らが、請求書を書いている姿を観たことがある人々は少ない。

サイン会に列を生み、大作に名を連ねる“The メジャー”しかし、彼らは自身のギャランティーの交渉が苦手だ。逆に、頑として指定額を譲らないアーティストも存在するのだがそれもまったくに同様、“価格”への恐怖が導く虚栄である。

アーティストは、作品に価格をつけることが苦手でありましてや、自身の価値に値段をつけることができない。すべてはプロデューサー、キュレーター頼りだ。

そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際ニュース:新進気鋭のアーティストやシュレッダーにかけられたバンクシーが、ロンドンのオークションに以前のエネルギーをもたらす

数ヶ月間、オークション会場が国際的なコレクターの間で入札合戦で賑わっていた時代は終わりを告げたかのように見えた。今週、ロンドンで行われた2つのセールを見ると、そのエネルギーが再び戻ってきている。

バンクシーの悪名高い作品「Love Is in the Bin」(2018年)がサザビーズのオークションに出品されると、以前の時代に見られたものを彷彿とさせるような買い占め騒ぎが起きた。この絵は、140万ドルで落札された後、絵が自壊し始めたのは有名な話。

今週は、木曜日に「Love Is in the Bin」が記録的な2,190万ドルで落札されたのは、10人の入札者が10分間にわたって競り合った結果だ。

また、フローラ ユクノビッチの『I'll Have What She's Having』(2020年)は、電話入札者に230万ポンド(300万ドル)で落札された。この価格は、最低予想価格の約40倍であった。

ユクノビッチは、オークションで最も注目されている新進アーティストの一人。その他、需要のある若手アーティストに新たなベンチマークが設定されたフィリップスのセールも実現したがクリスティーズでは、すでに市場で成功を収めているアーティストの作品が上位にランクイン。女性画家の作品にも高い需要があった。彼女の作品は本人から寄贈されたもので、収益は環境保護の法律団体であるClientearthに寄付される。ギャラリーのロースターに加わったばかりの彼女の市場は、アジアのコレクターが彼女の絵画を求めて争うことで上昇している。 - OCTOBER 15, 2021 THE Hollywood REPORTER -

『 ニュースのよみかた: 』

世界一時停止を経て、アートオークション市場の熱気が完全復活、新たなアーティストや女性にも脚光、という記事。

だがそれは表層でありこのムーヴメントは、過去の活況とは異なる。所有の主張に活用されていたマウンティングツールは明確な投資商材となり、新たなアーティストを生んだのは既存のキュレーターでは無くアーティスト本人によるセルフブランディングの成果。女性アーティストを敢えてフィーチャーする本記事はまるで、時代錯誤である。

“アーティスト”という生き方はいま、新たなフェーズへ。

『 作品は、価値化される。 』

アーティストは自身が生み出した作品を、大切にしている。当たり前であり、それがどれだけ尊大な評価であろうともわたしは100%、同意する。アーティストが生み出す作品は、その命に匹敵するのだから。

ではその価値、どれだけのものか。
正解は、“不明”である。

アーティスト本人がどれだけ作品を主張してもそこに、価値は生まれないのだ。価値は、マーケットを介するか誰かの手に渡ってはじめて検証されるつまり、「値付け」によって価値化されるのだ。作品に価格がつかなければ、価値を証明することはできない。

『 作品を価値化する、という責務 』

アーティストが生み出す作品はまだ、誰にも知られていない“無”の存在である。そこに“価格”が設定されることではじめて、人類に可視化されるのだ。作品は価格によって分類され、運ばれて、その規模を獲得する。大きな金額を獲得することに成功すれば作品は、“独占による話題性”か“多くの所有欲”を満たして、役目を果たすこととなるつまり、アーティストは作品に価格をつけるところまでも、責務なのだ。それは作品への頑なな固執を、汚しはしない。独りでも多くの人々に注目して貰うために必要な、手続きに過ぎないのだから躊躇う必要はない。値付けは、とっとと済ませるべきなのだ。

なぜなら作品とアーティストは両輪であり、両者そろって初めての価値つまり、作品の次には“アーティスト自身”を値付けせねばならないのだから。

『 価格のつかない作品 』

価格のつかない作品は少なくない。それは、アーティストの手を離れて以降、個人や企業の資本力ですら手にできない作品なわけだ。ではその作品に価値は無いのか、当然に“絶大”である。美術館や厳重な管理下に置かれるそれらとは、すでに“所有”を越えて“保護”へと目的が移行した「文明の宝」である。

アーティストが生み出す作品は、無から価値化され、高騰して輝きやがて保護されて、人類の価値となる。

『 編集後記:』

ギャラリーには、多種多様な人々がおとずれる。
来客は誰もが平静を装いながらしかし、作品を解説するアーティストのフィルター無しな言葉に呼応して、自身を語りはじめる。彼らのドラマはそれぞれに、無限の価値を秘めている。

アーティストにとっての「個展」とは、絶好の取材機会である。

無機質な素材を紡いで感情を描く、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。

■ 太一(映画家):アーティスト業界情報局 × 日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、 監督がスタジオから発する生存の記