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【アンチを批判しない】アーティストを評価するのは、自分自身

評価を恐れて媚びるクリエイティヴは、誰も幸せにしない。アーティスト性を評価するのはあなた自身。アンチよりも残酷に自身の人生を刻んでこそ、観客に価値ある存在になれる。このトピックでは、「アーティスト自身の価値化術」を、知ることができる。自虐で保険をかけた結果になめられているアーティストの、ために書く。

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アーティスト情報局:太一監督
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 あなたとアーティスト本人は別人 』

創作活動よりも、Twitterでの“アンチ退治”に奮闘しているクリエイターが存在する。それ自体をエンターテインメント化できている天才なら構わないだろうが多くの場合、感情に支配され結果として、自らの価値を下げるだけの徒労に終わる。

どれだけアンチに人格否定されたとしても、しかたがないのだ。

あなたはアーティストとして私意を作品へと投影し、その作品を公に発表したのだから。その作品を手にした観客のメッセージは、その観客自身の“表現”だとも理解できる。アーティストのあなたにはそもそも、アンチを批判する資格が無いのだ。理由は、明確である。

「あなた自身」と「アーティスト本人」は、同一では無いのだから。
あなたは自身をベースとしたアーティストを生きている。アーティストは管理人の人生を材料として、「価値化」している。

これは概念の確認であり、発明ではない。

あなたという人生が“アーティスト”に喰われ刻まれることを受け入れたなら、アンチの言葉すら温かいと気づくはずだ。自身を提供して、アーティストを活かすことを選んだ人生なのだから。

そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際ニュース:クエンティン タランティーノ監督、幼少期の侮辱により母親に「1ペニーも渡さない。」と宣言。"No House for You!"

それは、クエンティン タランティーノ監督の映画に出てくるような数十年にわたる恨み。タランティーノ監督は、幼少期に母親から自分の書いた文章を馬鹿にされたことについて、「そんなことを言ったから今あんたは、俺から何ももらえないんだよ」と語った。

「Kill Bill」の監督は幼い頃に自分の書いた作品を母親に否定されて以来、母親に「1ペニーも」与えないと誓ったことを明かした。学校で脚本を書いていた頃、母親が「俺の学力の無さを責めていた」と語った。

「母はそ文句を言っていたんだ。そして、ちょっとした暴言の最中に、“あなたの小さな執筆活動なんてもう終わりにしなさい、終わってるのよもう”と言ったんだ。言ったんですよ。その時だ。頭の中でこう思った。“あんた、俺が成功しても、あなたは俺の成功から1セントも受け取れないからな。あんたには家も無い。優雅な休暇も無い。“言った”のはあなんただ。だからあんたには何一つ、与えられることはない。」

にわかには信じがたい。その通りにしたと?「そう。国税庁の窮地から彼女を助けたが、彼女に家は無い。キャデラックも無い。」

お母さんの言葉は、あなたの成功への意欲を高めたのでは? お母さんに家を買ってあげてはどうか?

「子供と接するとき、言葉には結果があることを忘れないことだ。覚えておいて欲しい。覚えておいてください。彼らにとって“誰かの皮肉や口調”には必ず、“結果”が伴うのだということをね。」
 - AUGUST 09, 2021 THE Hollywood REPORTER -

『 ニュースのよみかた: 』

子供の頃に書いていた自身の作品を「小さな作品」「終わっている」と口走った母親への怒りを成功後に、無慈悲という制裁で結論づけた、という記事。

生き別れた父親との再会を「去れ。」と追いはらい、母親の暴言に、相応しい“結果”を示したタランティーノ監督は、特殊なのかも知れない。だが、「アーティストの姿」として正直だ。感情の機微を扱うアーティストは“創作活動の最中”に心を解放しており、デリケートな瞬間が汚されることを嫌う。本件はたまたま、表面化した話題に過ぎないだろう。彼はアーティストであり33年間もの間ずっと、“創作活動の最中”なのだから。

『 自己肯定という自己否定 』

少しだけ、難解な章だ。通読に意義はある。

アーティストは時に、誰もが驚くほどの否定的な言葉を吐く。意図していないと言えば嘘でありつつもそれは、本能にフィルターをかけない努力の成果でもある。アーティストは覚悟の先に、自身の人生を解体してまでも、「アーティスト」を生み出そうとしている。「作品」と「アーティスト」という両輪に相応しい、ブランディングである。

一方で、自身とアーティスト性を同一視して苦悩している者がいる。そういう人々は往々にして自己肯定感が強く、人格否定に過敏である。その様子は、若くして成功したアーティストがメディア相手に感情を剥き出しにしてしまう例に、観てとれる。

彼らは自己肯定しているつもりでいるが実のところ、自身かアーティスト性、どちらかを否定している。既に野望をもたない巨匠たちに“ギラギラ”が無いのは老いだけではなく、「自己肯定」の習慣を排除し終えているためだ。

巨匠は否定されたなら、「なるほど君はまだその位置に立っているんだね。」と感じるだけだしかし、もしも盛大に褒められようものなら、「やめてくれ、わたしは自身をそこまでの価値だとは認めていない。」と返す。褒められれば褒められるほど自身の不均衡と不具合を露呈する巨匠たちは誰よりも、現在の自身を見抜けているのだから。


『 自虐は、美しくない。 』

巨匠が認める自身の不均衡と不具合は、「本来の自分とアーティストである自身」をしっかり理解できていることから、正直な言葉を発したに過ぎない。“自虐”ではない。

一方で、自身を見下した表現を露呈し、責められないために「自虐を保険として使用」しているクリエイターが存在する。一見すると謙虚で誠実な存在に観えるが、本心では無いことから、感情がささくれる。“自虐を肯定”されると、腹が立つ。“自虐を否定”されると快感を感じ、癖になる。やがて彼らは、“自虐”を手放せなくなり、アンチを増産する負のループに陥る。

事実かどうかが重要なのでは無い。“自虐ネタ”自体を自身がしっかりと受け止められているかどうか、だ。巨匠に倣い“自己肯定”を手放せば、“自己否定”には陥らない。

アーティストとして、作品を預かる聖なる存在として、美しくあるべきだとは想わないだろうか。

『 編集後記:』

東京のどの劇場よりも大きな劇場で、子供たちのための小さな映画祭が開催される。かつて子供だったすべての大人たちへ、利を度外視した想いが増幅し続けている。ありがたいことに招待頂きながら“激励の握手”もかなわないこの時代ではあるが、想いは共にあり。

明日の快晴を想い、笑顔の自身に気付く。

子供だった自身に恥じない作品を想い、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。


■ 太一(映画家):アーティスト業界情報局 × 日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、 監督がスタジオから発する生存の記