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【映画と嘘】感動させられれば“フィクション”でも構わないのか

アーティストは作品の中に、意図を持ち込む。それが“事実と異なる解釈”だった場合、観客はなにを信じるべきなのか。このトピックでは、「映画監督が扱うタブー」を、知ることができる。映画なのだから何を描いても構わないと信じているアーティストの、ために書く。

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アーティスト情報局:太一監督
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 映画は自由しかし、事実は変えられない 』

創作とは、真実に基づくイマジネーションの観える化である。

大胆な断言ではあるが、なかなかに完成度が高いので善しとする。上記の断言がよくできている点は、「真実」という言葉を選択したことにある。それはけっして“事実”であっては、ならないのだ。ここ「アーティスト情報局」の読者なら混同しないことではあるが念のため、「真実」と「事実」の明確な違いを確認しておこう。

・「真実」とは:人の感じ方
・「事実」とは:現象

つまり、作品や映画の中でアーティストが論じられるのは常に「真実」だけであり、アレンジも加工も不可能な「事実」には、記録する以外の手段が選べないという事になる。

では、「ドキュメンタリー」と「ジャーナリズム」はどうなのか。どちらにもその業界のスペシャリストが存在しており、ジャンルとしての業界が機能している。

そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際ニュース:エミー賞候補監督たちが「ジャーナリズム」と「ドキュメンタリー映画製作」の違いについて語る

映画監督が語る、真実を探るための戦術とは。

最新のドキュメンタリー映画「Roadrunner: A Film About Anthony Bourdain」が公開された後、主要人物の声が“人工知能によるシミュレート”
だったことが明かされた。これを機に、ライターたちは「“ドキュメンタリー”はジャーナリズムではない」という見出しをつけ、怒りを爆発させている。

しかし、ドキュメンタリーは完全なる客観視を求められてはいないながらも、調査、事実の理解、対象者へのインタビューなどのジャーナリスティックな戦術を用いて真実を明らかにすることを目的としている。

ドキュメンタリー映画のベテラン、スティーブ ジェームズが語る。「自分は“ノンフィクション ストーリーテラー”だが、だからといってジャーナリズムの原則を忘れているわけではない。ジャーナリストは、言いたいことを含めた明確な目標を持って取材に臨み、それを裏付けるものを探し出します」

元フォトジャーナリストのジェフ オルロスキー。「インタビューだけでなく、物語のシークエンスも盛り込みましたよ」

映画監督でジャーナリストのデビッド フランスは、インタビューに応じた難民の身元と生活を守るためにと彼は、人工知能とA.R.技術による「顔の差し替え」を利用した。

ジェームズ監督は声優を使って、回顧録を読み上げた。

“人工知能による声のすげ替え”に論争が勃発する前に取材に応じた際、ネヴィル監督が語った。「映画の中にフィクションの要素を入れるのは間違っているのではないか、と言われることがあります。私はドキュメンタリー警察ではありません。最終的に真実を見つけようとするものであれば、何でもありだ。」 - AUGUST 11, 2021 VARIETY -

『 ニュースのよみかた: 』

という記事。

「ドキュメンタリー」と「ジャーナリズム」の明確な差は描けずしかし、イマジネーションに依存しない徹底的な取材を経るという点で、ドキュメンタリー作品の製作荷は必ず、“ジャーナリズム”のメソッドが必要なのだと解釈できる。

それが結論だろうか。世に真っ当なライターの記事であるならば安定の着地ではあるが、わたしはアーティストである。“正直”が求められる時代において、私意を語るべきだと想う。批判は、お受けする。

では――

徹底的な取材を繰り広げようともドキュメンタリー映画には、「意図が優先」される。段取りのない状況下でカメラを回していれば“リアル”を撮影しているように観えるが、そんなことはない。目の前で展開する“現象(事実)”を脳内で編集しながら、意図的な構図でストーリーを描いている。ドキュメンタリー作品の現場で行われているのは、「即興演出」である。瞬間を切り取る写真にすら“事実”を切り取ることは至難の業でありながら、長編動画が“リアル”を描ける可能性は、無い。ニュース映像も、“事実に基づいた演出”である。すべては作者の意図によって構成された、“真実の作品”である。

一方のジャーナリズム取材とは、「取材対象最優先」の情報収集である。取材対象への配慮を徹底し、より深い取材機会を実現する。正しいことも書いてある。「言いたいことを含めた明確な目標を持って取材に臨み、それを裏付けるものを探し出す」その通りだ。ただし、探すだけではなく“徹底的に追い込んで獲得する”という事実を、この“ベテラン監督”は知っておくといい。わたしは現在、巨匠国際ジャーナリスト共に映画のSCRIPTを執筆している。

『 “嘘”の扱い方 』

アーティストはイマジネーションを反映する過程で、事実と乖離した表現を採用することになる。それは“嘘”なのだろうか、それとも。

記事にもある“人工知能活用による大論争”の本質は、技術的な問題ではない。「事前に告白しておかなかった」という、作者の無配慮による。

イマジネーションでも即興演出でもあえて、“嘘”であったとしても、「正直に」告白しておきさえすればすべては、作品に収めることが可能なのだ。

『 観客への告白 』

これまでの創作活動は、観客に対して合意の元で作品を突きつけてきたかたちだ。作者はメディアを介す以外に姿を現さず、観客は中身そしらぬまま“作者への信用”に対価を払って体感する。

それは美しくも、現代的ではない。
現代の作者は、作品その製作過程をも価値化して、“鑑賞という体感”までの道程をも演出し、ナビゲートすることが責務になった。アーティストは作品にこめた“真実”を告白し、観客への誠実かつ正直な情報提供を行う義務がある。もう“サプライズ”を喜ぶ時代ではない観客は、もうマーケティングで洗脳できる程度の馬鹿ではない。

『 編集後記:』

「居合」と「剣術」の、違いが気になる。

わたしはテクノロジーとプラットフォームの最先端を闊歩しながらしかし、我ながらに古臭い意識に導かれて、創作活動を続けている。“心に刀”を忍ばせながら。

“居合(いあい)”は鞘に納まった刀を、瞬時に抜いて相手を斬る技術である。とても洗練されていて、美しい。平静なる日々に無骨な覚悟を生きるわたしは居合を夢みるが、実のところは明らかに、“剣術”派である。

抜いた刀の切っ先を交えて対峙し、互いの合意をたしかめたい。生きて進むはどちらか独り、過ぎゆく風に恨みはない。

事実に支えられて真実を突き進む、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。

■ 太一(映画家):アーティスト業界情報局 × 日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、 監督がスタジオから発する生存の記