見出し画像

有馬家を救った徳川の姫~国姫(栄寿院)について (その1)

地元大名である有馬家や大村家について調べるうち、以前から気になっていたのが有馬直純の継室で徳川家康の養女である国姫。

「粗暴でキリシタンを嫌った」「夫である直純を唆せてキリシタンを弾圧した」等、キリシタン側の資料ではよく書かれていませんが、調べるうちに面白いことがわかってきたので、少し記してみたいと思います。

1  出自

国姫系図。
プリンターが不調によりパソコン画面の写メでご勘弁下さい。

徳川家康の養女であり、血縁者(外曾孫)にあたります。家康の嫡男だった松平信康と徳姫(織田信長の娘)との間に生まれた娘、熊姫が、徳川家の重臣、本多忠勝の嫡男、忠政に嫁して生まれた娘です。

つまり徳川家康、織田信長、本多忠勝という戦国武将の華麗な血統をひく姫です。

母の熊姫は、永井路子さんの「歴史をさわがせた女たち」に登場する女性で、家康に可愛がられた孫姫で、家康にねだって自分の息子の正室に千姫(徳川秀忠の娘で豊臣秀頼の正室)を迎えた・・という話が出ています。つまり国姫は、千姫とは義理の姉妹になります。

2  最初の結婚

1605年、徳川家康の養女となり越後福島藩45万石の藩主、堀忠俊に嫁ぐも、1609年、堀家の御家騒動により忠俊は改易。離縁となります。

3  二度めの結婚

1610年、日野江藩4万石の有馬晴信の嫡男、直純の継室として嫁ぎます。

直純は15歳から親元を離れ家康の側近として仕えており、キリシタンでした。同じくキリシタンの小西行長の姪、マルタを正室としていましたが、離縁し、継室として国姫を迎えます。

有馬キリシタン遺産記念館のリーフレットより。
有馬晴信木像と日野江城跡から出土した金箔瓦。
日野江城跡
日野江城跡石垣

45万石の大名の妻から4万石の田舎の小大名の嫡男の妻へと、不釣り合いな婚姻のように思いますが、家康は有馬家の南蛮貿易の利権を配下に置きたかったのではないかと思います。金箔瓦が出土した日野江城、原城の造りや、有馬晴信も正室の死後、京の有力公家から継室(菊亭ジュスタ)を貰っているところからみても、とても4万石の田舎大名とは思えない、豊かな財力と貿易利権があったものと推察します。

あと先日のNHKスペシャルを見てもわかったのは、家康は江戸幕府初期はスペイン・ポルトガルとの貿易とオランダとの貿易を天秤にかけているようなところがあり、最終的にキリスト教布教を前提としないオランダとの貿易を選択しスペイン・ポルトガルと断交しますが、この頃はその過渡期であり、キリシタン大名でスペイン・ポルトガルとの太いパイプを持つ有馬家を押さえたかったのだと思います。

当時、有馬晴信と家康との関係は良好で、家康からの依頼で伽羅木の買い付けをしたり、台湾との交易の可能性を探る調査団を送ったりしています。国姫の降嫁は、その返礼とも思えるのです。

(その2)に続きます。

有馬キリシタン遺産記念館HP

*この記事は2020年8月1日のFacebookへの投稿を加筆・修正したものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?