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雑記.20190430


自意識が過剰だ。そう思う時がある。
いや、思うというよりもそういう状態だと認識すると行った方が適切か。
そうなっている時はどんな感じなのか。
自分の思想、発言にばかり意識が向く、周りの会話が全て薄っぺらに聞こえる。そこに関与していないのだからそれらを正しく理解することに程遠い場所にいるのに、どうしてそんな遠くからわかったような気で見ているのだろうか。
私はあまり意識しないで偉そうな口調でいることがあるらしい。「爆弾発言」というものもする。これは困ったことかもしれないと思いつつ、いい点もあるしそれを治そうと注力するより他にできることがあるような気がしてそのままにしている。それでいいのかはわからないけれど。

私は人にちやほやされる方だと言われた。どちらかと言えば、確かにそうかもしれない。ちやほやというよりはいじられているのだけれど、人に構ってもらう場面は多い。人並みの愛嬌といじりやすさゆえだろう。分かる。しかし、これはどんな場面においても言えることではない。いつでもどこでもちやほやされる人間ではないことを私は知っている。と思っている。私のいわゆる「可愛さ」は平均点あたりだ。そのため、その場によって相場が変わる。めちゃくちゃちやほやされる場もあれば、もっと可愛い子がたくさんいる場面では中の下みたいな扱いを受ける。まるで輪の中心にいるかのような場所があれば、隅っこでだんまりを決め込む場面もある。誰だってある程度そうなのだろうが、もう少し自分の立ち位置が極端だと良かった。どちらかに染まることができる。場所によってはちやほやされるからそうでない扱いを受けると自分が勘違いをしていたんだなぁと惨めな気持ちになるし、そうかと思えば輪の中心でいじられていささか戸惑う。根がある程度暗いので、いじられることについても、いじらないと関わるのが面倒な人間なのかもしれないとか考えてしまうことがある。あれあれ。思えば、集団の関わりの中で、人と関わろうという気持ちが乏しい。気になったり気分だったりするとちゃんと話そうとするが、人と建設的かつ戦略的にコミュニケーションを取ろうという気持ちが足りていないような気がする。これについても直した方がいいのかもしれないとは思いつつあまり直す気がない。必要な人間との関わりは与えられるし、今までもそうやって人と不十分なく関われてきた。

昔、ビジネス野郎と話す機会があったのだがその時はひたすら「◯◯ちゃんは何をしたいの?」と聞かれた。そこでは、行き当たりばったりに物や人と出会って道筋を決めていくことをすごく否定された。「じゃあ◯◯ちゃんはそうやって何かが来るのを待っているだけなんだね」「それじゃ成長はできないよ」そんな感じのことをひたすら言われていた。私はその時もただそういう機会と時間があったし、基本的に苦手だと思う人と話す中で何かわかり合う部分を見つけられるのではないかと思っただけで会う約束をしたのだ。ただ相手について知ろうとしただけなのに向こうは私が人生の相談をしに来たという想定だったらしい。会って数十分の、しかもあまり心を許していない人間にどうして私の将来を委ねなければならないのか、と思っていた。彼とは根本の価値観が違ったので非常に疲れた。その中でも何か折り合いをつけて話ができないかとあれこれ試みたが、ついに両者に開通するものはなかった。気がする。

考えることを放棄するべきではないと思うし、一人一人の行動が世界を作るのだからそこを悲観する必要はないと思う。でも、それが万能じゃない、全てじゃないことをどこかで知っておいた方がいいのかもしれない。人力尽くして、天命に委ねる。そんな感じがいい。

やはり少し気を緩めると途端に語り口調が偉そうだ。まとまりもないし主題が飛んでばかりのひとりよがりな文章ができてしまった。でもタイトルを「雑記」にしてしまえばこれも良しだろう。そもそもこんなことをしている場合ではないし、もうバイトに行かないといけない。そういう時に限って主義主張は強くなるしエモい気持ちになるよね。いいけど気をつけなくちゃ。おしまい。

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