ルーシィ・リヴィングストンの日常②
「ルーシィーちゃん、次イチゴできるー?」
流し台を占拠していた洗い物の山を征服し終え、床掃除用のモップに手を伸ばしかけていたわたしは不意を突かれ、返事をする声が裏返る。
イチゴをする――それ即ち、特大ボウルいっぱいのイチゴをひとつひとつ、傷みをチェックし、ヘタを取り、洗い、水を切り、選別し、形の悪いものを縦にスライスしていくという一連の作業のことを指す。
要領はすでに聞いて知っている。単純作業であり、技術的にも特に問題はない。しかし、営業時間内の洋菓子店「リジェッタ」の厨房でそれを行うとなれば、それはわたしの手がけたイチゴがこの店の商品の一部になるということを意味する。
てっきり、いつも通り洗い物と掃除で他のスタッフをサポートしつつ、砂糖と小麦粉の袋(死ぬほど重い)を抱えて厨房を右往左往するものとばかり思っていた。上ずった返事をとっさに返したは良いが、心の準備というものがある……
「はいじゃあお願いねっ!お昼までに終わるかなぁ〜?」
待った無しだ。諦めてナイフを握る。この洋菓子店のオーナー、ミィメルさんはわたしの目の前にイチゴの山を築き終えると、砂糖袋を片手に二つずつ軽々と抱えて厨房の奥に消えて行く。以前、「お菓子作りは体力よ!」とランニングや筋トレをさせられた事があったが、あれが伊達や酔狂で無かったのだと今ならよく分かる。そして今、このイチゴの山を前にしたプレッシャーを考えれば、体力仕事の方が何倍かマシだろうか……。
わたしは週に一度、こうしてミィメルさんのお店を手伝わせて貰っている。現状お店の従業員の数は問題なく足りており、わたしもお賃金を頂いているわけではない。頼み込んで厨房に入れて頂いているだけのズブの素人だが、掃除と食器洗いの手際は忙しい仕込みの時間帯にはそれなりに重宝されている。
そう、わたしはバイトでもパティシエ見習いでもない部外者であり、本来なら掃除や運搬などの雑用こそ相応しい。この緊張の正体はつまりそれだ。お菓子作りは高度な専門性に裏打ちされた芸術的創作能力と工業的精密作業能力の結晶だ。それを知ってしまった今となっては、イチゴひとつをカットするにも夕飯のスープの具材を刻むようには行かない。
料理の腕前には自信があるが、それはあくまで家庭料理の話だ。夕飯に出す煮物の形が多少崩れたとて、黙って自分の胃袋に収めるか舌を出すだけで済む。しかし、それが定食屋で人様に供するメニューであったらどうだろう。対価の発生。ましてやこの店のお菓子は高級品だ。わたしなどではとてもじゃないが手が出ない。イチゴもさぞかし良いものを使っているんだろう。もしも至らぬ包丁さばきで次の職人さんの工程を妨害してしまったら……損失……
「はいお昼よー!みんなきゅーけー!午後からよろしくねー!」
リジェッタの厨房に店主の明るい声が響き渡り、職人の緊張感に包まれていた場の空気がにわかに弛緩する。午後の営業に向けて長めのお昼休みの始まりだ。
「おっ、ほぼ終わってるじゃーん上等上等!さすがルーシィーちゃん!」
談笑しつつ厨房を去って行く他の従業員とすれ違いながら、ミィメルさんがこちらへやってくる。雑念が邪魔したか、いまいちな手際だった。ボウルの底に不揃いで不恰好な数粒。
「それじゃ、イチゴ片付けて、始めよっか」
八の字に下がっていた眉根をグッとあげて、気を取り直す。つまり、ここからがわたしの本題だ。
***
「お菓子作り、嫌いになっちゃったんじゃないかって思ったわ。」
予熱したオーブンに型に流し込んだ生地を放り込む。ここまで人事は尽くした。筈だ。何度やっても、ここから先は運を天に任せる気分になる。この厨房のプロ達はこれを毎日何度も気負いなく当然のようにブレのないクオリティで他の作業の片手間に完璧に焼き上げるのだから、所詮はアマチュアだと言う気分になる。焼き上がりを待つ間に、クリームやトッピングの用意。
この状態のわたしに返事ができないことはミィメルさんも承知の上なので、今わたしの背中に投げかけられた言葉は彼女の独り言になる。
「悪いことしちゃったなぁ、ってね。それはもう反省したのよ。」
モナーブルグパティシエ大会。
街の内外のお菓子職人が集い、街役場まで巻きこんだお祭りに、わたしは素人の分際で出場し、当然の結果として初戦敗退を喫した。
考えうる限りの努力も、誰かが信じてくれる才能も、報われるものとは限らない。勝者と敗者は衆目の前に歴然として、わたしは勝負の世界の残酷さを生まれて初めて味わった。
「その次の週だっけ……『お菓子づくりを教えてください』、なんて。驚いたわ。嬉しかったんだから。」
わたしを立ち上がらせたものは何だったろう。したり顔で説教くさいことを言い、相手方の投票札を挙げたアイツを見返してやりたかったから?もちろん、それは大いにある。具体的にはわたしはそのためにここに通っているのだから。だけど……
あの人は、どうしてあんなに楽しそうに物を作れるんだろう。自分の作ったものを、どうしてあんなにも胸を張って人に勧められるんだろう。それまで何の気なしに眺めていた後ろ姿が、無性に気になって仕方が無くなったのは、あの手ひどい敗北を経た後だった。
ものを作ることを続ければ、いつかわたしにもわかるだろうかと、そんな風に思ったものかどうか。好奇心が半分、そしてきっと、憧れが半分。わたしがこうしてお菓子づくりを学んでいることに意趣返し以外の理由をつけるとしたら、そんなところになると思う。
あの人が帰ってきたら、そういう……ものづくりについての話なんかもできればいい。
回想の中の見慣れた背中にある着想を得たわたしは、ケーキの仕上げで少し、遊ぶことにする。まずまずの仕上がりで焼きあがったスポンジに塗るクリーム、トッピングの配置に、それとなく意図を込めていく。
――然るべき因果そこになく、
かく在るべしとのみ産み落とされた、
それは記号の集合、文字の羅列。
されど紡がれる物語が、
折り重なり生ずる関係性が、
揺らぎ、解れ、可能性を孕み、
永遠無限に語り継がれる得難き価値の源泉となる。
汝、創世のくびきより放たれ、自ら望む未来を織り成せ。
ただその心震わすままに。
世界と世界のあわいにわたしの意図を通し、離れた二つを縫い合わせるように。
あの人ならきっと、このタイミングでこう唱えるんだろう。
れん、きん――
***
「イチゴ切るの、緊張したでしょ。」
出来上がったばかりのわたしのケーキをニコニコと眺めながら、ミィメルさんが言う。
ケーキの評価じゃなくて、そっち?相当まずい切り口だったろうか……。
「私にもあったわぁ。自分の未熟な腕前で人様から金なんて取っていいのかーとかさ。」
自分の能力、作品を世にあらわすということ。
自分自身に値札をつけて、世界から評価を受けるということ。
「なんかそういう、漠然とした大きな物相手に、結局は一人で戦わなくちゃいけないのが、職人の世界っていうのかなぁ。おかげで、みんな鍛えられるんだけどね。」
まさにその怖さを、わたしはあの大会で知ったのだと思う。
評価される事は、怖い。
だって、わたしにはそれだけの価値なんて無いから。
「でもさ、このケーキを仕上げてる時のルーシィーちゃん、とても楽しそうだったよね。なんでかな。」
それは……対価の発生しない、所詮は練習の気安さというのも確かにある。でも……
よぎるのは、あの人の後ろ姿。
いつだって楽しそうで、迷いがない。工房で物を作るときも、「神父さん」として振る舞うときも。
「あなたが……このケーキに何を"籠めた"のか、わたしにはわからないけれど。あなた自身は知ってる。きっとそれが大事なのね。あなたはこのケーキの価値を知ってるの。それこそ完成する前から。だから、気負いなく作ることを楽しめたんじゃない?」
持たざるわたしに価値が無いなら、外から借りてくればいい。
今ではないいつかから、ここではないどこかから。自分ではない、誰かから。
それは、一人にあらざる繋がりの力。
「錬金術、ステキね。わたしの教える……そうね、"個としての技術"と同じくらい、あなたにとって、それはきっと役に立つわ。そこそこ厳しくて残酷な世界を相手に、上手く立ち回っていくために。」
職人の──ただ一人にて在らしめられたる力の、なんと偉大で崇高なことか。
それでもちゃちなペテンが、下手な猿真似が、目を覆うような劣化コピーが、その力を失う事はない。
そうか。もしかしたら、あの人は……
「ところでケーキとしての評価は、30点です。」
持ち上げてから落とすのは勘弁してほしい。
怒涛のダメ出しが始まる。ここまでミィメルさんはただ見ていただけなので、実質プロのアドバイスを受けて成長するにはこのタイミングを於いて他に無い。つまりわたしはこのために厨房のお手伝いをさせてもらっているわけで、ムダにしないよう死んだ目で一言一句メモを取る。いちいちもっともで、ちょっと凹む。
「とまぁ、いろいろ言ってみたけど、もうちょい高い点数をつける人もたくさんいると思うわよ。あなたの仕込んだネタが理解できる人とか。わたしに言えるのはあくまでお菓子づくりの技術の上だけでの話だから。」
『虐殺するよ。』はそのタイトルとは裏腹に主人公と彼を虐殺(?)しようとする純真無垢な虐殺者(?)との独特の関係性がほのぼのとした笑いを誘う人気の日常系ギャグで……などというネタの解説はしない。見苦しいからだ。自分の未熟は未熟として受け入れねば、成長はない。
「技術はどうあれ、ルーシィーちゃんのお菓子、わたしは好きよ。お菓子を頑張って作ってるあなたも。良ければ来週、またいらっしゃい。」
あまりに未熟なわたしには、とても抗いがたい漠然とした大きな恐怖。だけどその不確かさは、目の前の誰かの確かな一言でいつも容易に雲散霧消する。単純なわたしは、ミィメルさんの「好き」を聞くために、きっと来週もリジェッタの門を叩くだろう。
手提げ袋に包んだケーキを収めて、裏口から外へ出る。表通りの華やかな賑わいは遠く、わたしは少しだけ耳をすませて、微かな響きを確かめる。今にもかき消されてしまいそうな、それでもたしかにわたしに届く、小さな声。
帰ろう。わたしは陽の当たる通りへと歩みだす。おやつの時間に間に合うだろうか。
***
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