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どれみファンの死への旅路と地獄巡り 『魔女見習いを探して』考察(ネタバレあり)

●はじめに

「魔女見習いを探して」(以下では本作と記す)を鑑賞し様々な疑問や違和感を持った。
「おジャ魔女どれみ」が劇中劇という特徴的な構造。ご都合主義的な展開。突如物語に割り込んでくる「現代の悪徳」というモチーフ。それらがラストを迎えるまで、ついにかみ合わず、バラバラと提示され続ける。
本作を肯定的に捉える人も、否定的に捉える人も少なからずその違和感を抱いたのではないだろうか?
その違和感を解消するために、一つの仮説を立ててみた。それは、
本作は、主人公たちの死への旅路と地獄巡りを描いた物語ではないか?
というものである。
本作の主人公三人は虚構であるどれみの世界=彼岸と現実の世界=此岸を行き来する存在であり、その道中が地獄巡りである。
結果的に主人公たちは「彼岸」の世界を選択するが、ゆえに本作の鑑賞者であるどれみファンたちに対しては、「此岸」の世界に生きるしかないという事実を否応なく再確認させ、突き付けるのである。
最初はあくまでネタ的な仮説に過ぎなかったのだが、本作における疑問や違和感に当て嵌めてみると、むしろそうとしか思えなくなった。
 はっきり言ってこの手の都市伝説はありふれたものだ。しかしながらこの仮説によって、茫漠とした本作の構成がはっきりとした輪郭を帯び、理路が通るだけでなく、作り手の強いメッセージが立ち上がってくるのである。
本解説ではその仮説を裏付ける要因と、なぜ作り手は彼女たちを殺し、責めを負わせなければならなかったのか?を紐解いていこうと思う。
ちなみにネタバレを多く含んでいるので、楽しみにしている人は鑑賞後に読んでいただくことを勧める。
観ようか観まいか考え中、あるいはネタバレなんか気にしない、そもそもどれみに興味無いよ、という人はぜひ読んでみてほしい。
なんかおもろそう、ちょっと観に行ってみようと思ってもらえれば幸いである。

●あらすじ

教師を目指す22歳の大学生長瀬ソラ。一流貿易商社で働く帰国子女で語学堪能な27歳の吉月ミレ。絵画修復士になるためバイトに励む20歳のフリーター川谷レイカ。年齢も境遇も違う三人の共通点は幼少期に「おジャ魔女どれみ」を見ていた世代だということ。そんな三人が魔法玉をきっかけとして出会うことになり、一緒に旅に出ることになる。←Wikipediaからの引用

●「おジャ魔女どれみ」の解体

本作は非常に珍しい構造を採用した作品だと言えるだろう。
あらすじを一読すればわかるとおり、この映画はどれみの記念すべき20周年記念映画でありながら、「おジャ魔女どれみ」そのものを描くのではなく、「どれみ」を劇中劇として扱う構造になっている。
これは作り手にとって大変に挑戦的な試みであるといえる。
作品世界と鑑賞者という構図は、作品とそれを受け取る側(観客)の一般的な関係性である。しかしながら、本作は「おジャ魔女どれみ」の世界と、鑑賞者の中間に突如として差し挟まれたもう一つの世界なのである。
本作の存在によって「おジャ魔女どれみ」自体は鑑賞者から良くも悪くも遠ざけられ、メタフィクション、劇中劇というオチを担わされるに至った。
それはまるで「おジャ魔女どれみ」の解体を意味しているかのようだ。

●作り手の悪意

それではなぜ、作り手たちは「おジャ魔女どれみ」を解体させかねないような(あるいは解体させてしまったかのような)コンセプトを選択したのだろうか?
そこには本作を作り上げた作り手の悪意が隠されているように思える。

本作で主人公たち三人は、どれみの世界と現実の境界を行き来する。
それは物語上どれみのロケ地巡り(いわゆる「聖地巡礼」)という形で表現されている。
本作ではその楽しいはずのロケ地巡りを、「現代の悪徳」「地獄巡り」と
いうモチーフを盛り込むことで、どれみの世界(虚構)=彼岸、現実=此岸の境界をめぐる旅として描いている。
その構造によって、本作の主人公たちは、あたかも敬虔な巡礼者であるかのように映し出されてくるのだ。
主人公たちは、現実社会での厳しい現実にさらされながら、どれみの世界からなんらかの解を得られるのではないかと期待している。とすると、本作は主人公三人の巡礼の旅を通し、どれみへの信仰を取り戻す物語なのではないか。それは、一度どれみへの信仰を忘れてしまったかもしれないファンたちに信仰を取り戻し、信仰をもって生きよという作り手のメッセージになっているようにも見える。

しかしながら、本作の主人公たちが示すように、ファンが作品世界を愛し、その世界を信仰し続けることは、呪いや呪縛としての側面も内包している。本作でその呪いは、主人公たちの盲目的な(どれみへの)信仰という形で示され、結果として虚構と現実のバランスの崩壊、つまり現実ではなく虚構を選ぶことに帰結する。
本作では、それを一貫して「死」のイメージで表現している。
ロケ地巡りを地獄巡りとして描く本作において、彼岸と此岸の境界を彷徨う三人は、やがて盲目的な信仰の行きつく先として「彼岸」=「死」にたどり着くのだ。

つまり作り手の悪意とは、表層的にはどれみへの信仰を取り戻せと謳いながら、深層では盲目的な信仰の否定を行っていることなのである。
本作の作り手は、盲目的な信仰という呪いを本作の主人公三人に負わせることで、われわれ鑑賞者やどれみファンを「おジャ魔女どれみ」の引力から解放しようと考えたのではあるまいか?
もっというと、どれみという虚構の引力に引き寄せられ、自ら死を選ぶ主人公三人を犠牲にすることで、本作の鑑賞者に対しては、虚構に生きるのではなく現実の世界に立ち向かってほしい、という真のメッセージを伝えようとしているように思える。

●彼岸と此岸

では、本作中の主人公三人は、どのようにどれみの呪縛に捕らわれていくだろう?
言い換えれば、三人はどのようにして虚構の引力に絡めとられてしまうのか?
先にも述べたように本作はどれみの世界(虚構)=彼岸、現実=此岸として演出されていると考える。本項ではそこに重点を絞り、本作中に起こる出来事を読み取っていこうと思う。
その視点で物語を紐解いていくと、一見すると楽しくポップな演出の一つ一つに別の意味が付与されていることが見えてくるはずだ。

・兆候 鎌倉の海での自己紹介
劇中の三人、長瀬ソラ、吉月ミレ、川谷レイカは、「おジャ魔女どれみ」がMAHO堂をモデルにしたとされる廃屋で思いがけずに出会うことになる。
無論このMAHO堂も境界線としての役割を担っている。それは作中誰が見ても明らかなように演出されている。問題はその後のシーンである。
思いがけない出会いの後、彼女たちは場所を移し自らの境遇などを語る。
その場所とは鎌倉の海岸である。
海岸というモチーフはロケーションとしての美しさも持ち備えているが、生と死、此岸と彼岸という意味を持っているのは言うまでもない。
よくおばあちゃんなんかが、お彼岸の時期は海に入ってはだめよー。等というが、それは海が死の世界と密接に結びついているからである。
この場面において彼岸は、雄大に彼女たちの後ろに控えているに留まる。
あくまで最初の兆候として…
このあと三人は居酒屋でどれみ聖地を巡る旅を画策する。
彼女たちの「彼岸」への旅がはじまるのだ。

・境界 神社での魔法の行使
どれみの聖地めぐりを共にする三人。幼いころ、両親の離婚により大好きだった父親と離別してしまった川谷レイカの過去を知った一行は、おもちゃの魔法玉を使いレイカが父親と再会する願掛けをする。
これは三人にとって、あくまでおまじない程度の遊びに過ぎないものであるが、そこから物語は急展開を迎える。
何処からともなく現れた野球少年(だった気がする)が川谷レイカにぶつかり、あろうことか大切にしていた魔法玉をレイカは落としてしまう。
その転がった魔法玉を追いかけ、紆余曲折を経たのち、魔法玉はとある病院でレイカの手元に戻る。その病院でたまたま、かつてレイカの元を去った父親と邂逅を果たす。
この場面は本作のターニングポイントであり、今まで本作中に存在したリアリティラインの許容を大きく超えた偶然が起こるのだ。ある人はこれをご都合主義と言うかもしれないが、むしろ三人によって魔法が行使された瞬間に思える。
この魔法玉による願掛けの一連のシーンは飛騨高山にある神社(名前は失念)の境内で行われる。もし仮におジャ魔女どれみの世界が“西洋の魔女”とするならば、“神社の社”はその対をなす概念でもあるだろう。(実はわたし「おジャ魔女どれみ」をあまり見たことが無いのでアニメ版の聖地だったのかもしれない…異論は認めるがあえて強硬に持論を続ける。)
つまりこの場面で三人は、「どれみの世界」と対をなす神社、彼岸と此岸の境界線に存在していることになるのだ。
結果として魔法玉は境内とは反対の方向へと転がってゆく…虚構の行使と引き換えに川谷レイカをはじめとする一行は彼岸の引力に絡めとられてしまうのである。

・選択 エゼキエルの警告
三人は紆余曲折を経て、仲たがいをし、再び結束する。
そんな中、商社勤めのキャリアウーマン吉月ミレは社内における自分の待遇や、上司の太鼓持ちで出世していく同期、そんな同期に自分が掴み取ったチャンスを横取りにされるなど、自分の思うように行かない会社のありように嫌気が差し自らの進退を決めかねていた。
吉月ミレが進めていた案件が詳しく述べられること無いが、彼女はエチオピアの会社のビジネスマンと何度かコンタクトを取っていることが描写される。後に、吉月ミレはそのビジネスマンからかなりの信頼を得ていたことが判明する。
そのエチオピアの会社のビジネスマンは「エゼキエル」という名前である。本作中のエゼキエルは所謂、端役でしかなく本作中に登場するのはほんの数秒でしかない。しかし登場人物の名前というのは作中での役割を象徴、規定する場合が往々にしてある。その法則を当てはめてみるとこのエゼキエルこそ、本作のテーマを象徴する最重要人物であることがわかる。
エゼキエルと聞き、旧約聖書の一つである「エゼキエル書」を著した預言者エゼキエルを思い浮かべる方も少なくないはずだ。彼はバビロン捕囚(簡単に言うと大昔、故郷を奪われたユダヤ人たちが酷い目に合った出来事。詳しくはググってください。)のときにユダヤの人々に信仰を解き続けた預言者として知られている。信仰を信じきれない苦しい時代において、再び人々を信仰に引き戻す。それはかつてのファンが、どれみへの信仰を取り戻すという表層的な本作テーマと一致している。
また一方で、エゼキエルはユダヤの民に対し、異教徒との姦淫や偶像崇拝などの行いに警告をした人物としても知られている。吉月ミレないし三人の主人公の中の偶像とは、言うまでも無く「おジャ魔女どれみ」である。
それはまさに、作り手が深層に置いた盲目的な信仰の否定というテーマに結び付いているといえよう。
つまりエゼキエルとは「彼岸」と「此岸」のバランスを司る象徴であると言えるのだ。
吉月ミレにとって此岸にもっとも結びついていた象徴が会社であったことは容易に想像できる。彼女には幸いにしてエゼキエルという理解者、あるいは警告者まで存在していた。にも関わらず、彼女はエゼキエルから背を向けるような形の選択を採る。
吉月ミレは会社を辞めてしまうのだ。この選択によって彼女の世界はバランスを崩し、一息に彼岸へ傾いていくのである。

・加速 産寧坂での転倒
旅の途中、三人は大宮竜一という青年と出会う。新幹線での車中、たまたま三人と相席になった青年なのだが、彼もまた「おジャ魔女どれみ」好きであることが分かり、彼女たちと意気投合するのだ。この物語は主人公三人の偶然の出会いが発端となっているが、そのシチュエーションと重複するような偶然が一つの作品内で再び起こるのである。ある人はこれをご都合主義と呼ぶのだがそうではない。何故ならこの時点ですでに三人は虚構の世界に絡めとられているからである。そして、重複される偶然には作り手の真意が隠されているに他ならない。
三人の主人公の中で一番引っ込み思案な長瀬ソラは、旅を通してこの大宮という青年に恋心を抱いてゆく。長瀬ソラの想いに気付いた吉月ミレと川谷レイカは、二人の仲を急接近させるべくある行動に出る。
転ぶと三年以内に不幸が起こるとされる産寧坂。吉月ミレと川谷レイカは
長瀬ソラをその坂で転ばせ、大宮がソラをかばうというシチュエーションを作り二人の仲を近づけようとするのである。
ミレとレイカの目論見は成功し、ソラと大宮は産寧坂で転倒してしまう。
このシチュエーションは本家「おジャ魔女どれみ」のエピソードにも登場しミレとレイカがそれを模倣したことは本作中の描写からも推測できる。
しかし、この産寧坂は転ぶと三年以内に不幸が起きる以上に、転ぶと三年以内に死ぬという、何とも物騒な曰くがあるのだ。
この場面でもまさに彼岸と此岸の世界の拮抗が描かれている。
吉月ミレと川谷レイカの行動は、唐突で危険な行動であることは間違いない。おもちゃの魔法玉による虚構の行使が行われた本作の世界において、転ぶと三年以内に死んでしまうというジンクスは無視できない“魔法”の筈である。彼女たち二人はなぜそんな危険を冒したのだろうか?
それはソラと大宮の仲を近づけるという意味以上に、「おジャ魔女どれみ」の世界を模倣した状況を作り出す必要があったからに他ならない。先に述べたように、吉月ミレと川谷レイカはすでにおジャ魔女どれみの世界に絡めとられている。しかし、長瀬ソラはまだ自分の立ち位置、どちらの世界に身を置くかを決めかねていた節がある。
吉月ミレと川谷レイカは悪意無く無自覚に、長瀬ソラを彼岸の世界、「おジャ魔女どれみ」の世界に引きずりこんだのである。さらに、「おジャ魔女どれみ」の世界を模倣するという事は、どれみの召喚を促す儀式としての役割を帯びているのではないだろうか?
かくして、長瀬ソラ、吉月ミレ、川谷レイカの三人は完全に彼岸の世界に絡めとられたのである。役者は揃ったというわけである。

・収束 虚構の召喚
長瀬ソラの大宮に対する想いは報われずに終わる。彼女たち三人の旅はここで終局を迎えるのだ。ソラとミレとレイカはその夜、居酒屋で沢山の酒を摂取し酩酊状態のまま夜の奈良の町を彷徨う。彼女たちが進む町の景色は、人の気配が無く、暗闇と濃い霧に包まれたまさに彼岸への道のりのように描写される。
彼女たち三人はたどり着いた樹の下に寝そべり、おもちゃの魔法玉を掲げ、どれみに会いたいという願掛けをするのだ。
どれみ召喚の儀式における最終工程というわけである。
こうしてついに三人の前にどれみが召喚されるのだ。
この場面でのどれみは、父親に連れられ夜の街を散歩している女の子として登場する。
どれみと明言されることは本作中において無いのだが、印象的な真っ黒いシルエットとCVが千葉千恵巳であることから、その女の子がどれみであることは明白である。
主人公の三人は、どれみに導かれるようにして川に架けられたつり橋へと辿り着く。まさに三途の川である。つり橋の上で彼女たち三人は自分たちの未来の展望について語り合う。
彼女たちが出した結論は、「おジャ魔女どれみ」のMAHO堂のモデルとされる聖地を中心に生活していくというもの。つまり彼岸に留まる選択をするのである。
こうして彼女たちは死ぬのである。

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●どれみ世界を応用した現代の地獄巡り

巡礼者たちの旅は往々にして困難が付きまとう。
冒頭でも触れたようにこの物語は死への旅路と現代の地獄巡りの構造を
採っている。
彼女たちの過去や旅の途中、様々なシチュエーションで現代の悪徳を目撃する。
時に繰り返され、ある時は唐突に彼女たちの前に立ち上がってくるのだ。
・親子関係の軋轢(それゆえに子供に対する接し方がわからない)
・女性に金銭的な依存をする所謂“ヒモ男”(それに対する煮え切らない少女)

・主人公の一人である吉月ミレが所属する、会社内の利権や派閥をめぐる争い
・思ったことを相手の気持ちを考えずに言動に出す

※本作中、川谷レイカを悩ます”ヒモ男”久保聖也。彼と、川谷レイカと吉月ミレの二人が鉢合わせる場面がある。
久保聖也の川谷レイカへの強引な態度にしびれを切らした吉月ミレは、彼を一本背負いで叩きのめしてしまう。
吉月ミレの一本背負いによって、重くなりがちなこの状況にコミカルさとカタルシスが加わり、本作の見どころの一つになっている。
このシーンは一見すると、川谷レイカの自立が、吉月ミレによって助けられたかのように描かれている。
しかし、川谷レイカの自立を描くのであれば、久保聖也は彼女のきっぱりとした態度によって精神的に打ち負かされなければならないはずだ。
コミカルな演出を取り入れたいのであれば、久保聖也に背を向け前へ進む川谷レイカ。そんな彼女の後ろ姿に久保聖也が恨み言を漏らす。
そこで吉月ミレが物理的に叩きのめす。という流れを採るのが妥当なはずだ。
つまりこのシーンで作り手が描いたものは、川谷レイカの自立が吉月ミレによって阻止される。というものなのである。
ここでもまた、川谷レイカの彼岸への傾きが補強されているのだ。
・罪の意識なく20歳の女性にガールズバーで働くことを勧める“大人”
※別に女性がそういう店で働くことをネガティブにとらえているわけではない。問題はこの物語の文脈上、不自然な形でガールズバーを勧めることの違和感である。
絵の修復士を目指す川谷レイカに働き口がないかを相談された際、矢部隼人は「レイカちゃんは可愛いし親戚が経営するガールズバーで働いてみては?」と提案する。
無論川谷レイカは絵の修復士に関連する仕事を探していたはずである。
矢部隼人の言動は、かつて川谷レイカを悩ませていた“ヒモ男”久保聖也のそれと重複してしまう印象を受ける。
・SNS炎上問題(ネットリテラシーの低さ)

上記の問題は本作の作り手が考える現代の日本における“悪徳”であるとみて間違いないだろう。そういった諸問題が、作中で不自然かつ強引に主題に
割り込んでくるのだ。
それでは足掛け20年に渡り「おジャ魔女どれみ」の世界を作りだしてきた
作り手が考える最も大きな悪徳とはいったい何であろうか?
それは先にも述べたように、自らが作り出した虚構に盲目的な信仰が生まれてしまう事なのである。
ここにして地獄巡りのモチーフと、おジャ魔女どれみの引力による呪縛が根底で結びついていることが明らかになるのだ。
本作のクライマックス、どれみたちがMAHO堂の中で姿を現す。それまでは存在を感じさせるに留まっていた魔女たちが、完全なる形を帯び、三人の
共同幻覚として現れる。その幻覚の中で、主人公三人は幼き頃の姿として
登場し、どれみたちに誘われるようにして天へと昇ってゆく。彼女たちの
中で、どれみ引力が発動した始まりの瞬間の追体験であると言えるだろう。
この一連の出来事によって本作中のリアリティラインのたがは外れ、虚構が現実を凌駕してしまう。それは、彼女たち三人が虚構と現実のバランスを見失ったことを意味し、作品と受け手の関係性において最も悲惨な末路である。
彼女たち三人は盲目的な信仰による「殉教者」となり、作り手が図らずも「罪人」になってしまう瞬間である。

●「おジャ魔女どれみ」と「鑑賞者の世界」の代理戦争の地『魔女見習いを探して』

幸いなことに本作中で、「おジャ魔女どれみ」は劇中劇として我々鑑賞者から遠ざけられている。
その為、どれみ引力が本作鑑賞者にまで及ぶことはない。
ここでようやく、なぜ本作が「おジャ魔女どれみ」の世界と鑑賞者の世界の中間に位置付けられたのかが見えてくる。
どれみの世界と鑑賞者の世界の拮抗する場として、本作「魔女見習いを探して」は生み出されたのだ。
彼女たち三人は本作の中で永遠にどれみの世界に身を寄せ、片や我々鑑賞者はどれみの世界の呪縛から解放される。主人公三人の視点を通しどれみに永遠の生を与え、同時に我々の前でどれみを解体して見せる。
それは「おジャ魔女どれみ」の「再生」と「解体」の見事なるマッチポンプと言えないだろうか?
本作の主人公たちの役割は紛れもなく、虚構の世界に君臨するどれみと、現実の世界に生きる我々捧げられたサクリファイスなのである。
「虚構」を選択した彼女たちを客観的に目撃することによって、我々は彼女たちとは別の道「現実」を歩むことが出来るのだ。

●総括

本作に描かれたような悪徳とはあくまで作り手が考える象徴で、我々の
現実世界はもっと悲惨で鬱屈しているはずだ。「おジャ魔女どれみ」で描かれた魔法は現実には存在しない。
そんな世界で生きる我々に「魔女見習いを探して」が訴えかけることはたった一つ。
虚構と現実のバランスを保ち、時として虚構の世界に身を寄せつつも、現実の世界を直視し真っ向から生きろということなのだ。

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