猪木ボンバイエ

それは、突然だった。
晩ごはんを食べながらぼんやり見ていた
テレビの中に、老いて痩せ細ったアントニオ猪木が現れたのだ。
その変わり果てた姿は、
私の知っているアントニオ猪木とあまりにもかけ離れていて、
思わず箸を落としてしまった。
夜7時のニュースの後の特番だった。
100万人に数人という難病を抱えて
闘病する猪木を追ったドキュメンタリー。
猪木は、もう79歳だという。

私は昭和のプロレスが大好きだった。
プロレスは、試合展開と
リング外での情念の物語がとても重要で、
猪木はどちらも最高の作り手だった。

試合はいつも、極限まで相手の技を受けに受け、
最後ボロボロになったところで、
卍固めやコブラツイスト、腕ひしぎ逆十字といった
必殺技で倒す。

因縁の相手をつくる天才であり、
戦う前から激しく試合を盛り上げる。

タイガーマスクのアニメと共に、
小学生の頃から夢中で見ていたが、
物語はずっと途切れることなく続いており、
私の中でアントニオ猪木プロレス絵巻が最高潮に達したのが、
高校時代に見た新日本プロレスであった。

毎週金曜日夜8時は新日本プロレスの時間。
赤いタオルを首にかけ、
テレビの前で正座をして応援する女子高生は
そういなかったであろう。
血と汗に塗れて闘う黒いパンツの男に声援を送る私を見て、
母親は、こいつは正気なんだろうかと、心配していた。

20代になり上京してからは、
何度も後楽園ホールや武道館、両国国技館へ足を運んだ。
だんだん、アントニオ猪木が歳をとり、
前のような体のキレがなくなると同時に
少しづつプロレスの人気が下火になってきた。
不人気になった番組を立て直そうとしてか、
山田邦子司会のおかしなバラエティ番組化した時には、
長文の抗議の手紙を送った。
これは、多くのファンからの怒りにより、
すぐに元のスタイルに戻ったものだ。
しかし、結局番組は打ち切られ、
金曜夜8時はプロレスの時間ではなくなった。

それから、私のプロレスへの興味は薄れ、
アントニオ猪木は議員になり、
テレビでビンタをする人となっていった。

そして、さらに何年もの時が過ぎ、
アントニオ猪木は、また闘魂の人となって帰ってきた。

弱々しく掠れた声で
「元気があれば何でもできる」と言う猪木さんに向かって
猪木ボンバイエ!!と叫び、
ちょっと泣いた。いや、かなり泣いた。



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