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『自然の中で孤独を治癒する。 』 金ギラン COLLOL 観劇評論

COLLOL
『このままでそのままであのままでかみさま』

再演
@韓国/コチャン(居昌)國際演劇祭
太陽劇場
2010年8月4日(水)& 5日(木)

観劇評論
(原文・韓国語、翻訳: イ・ジョンイル氏)

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『自然の中で孤独を治癒する。 』

金ギラン

百日紅が咲き誇ったコチャンのススンテェを上りながら「万個の星、百個の演劇」という第22回コチャン国際演劇際のスロ―ガンを思った。22年の時間を耐え、今は地元の自然な夏の日常の一つになったコチャン国際演劇際は地域公演祭りが招ける雑多な偏見が恥ずかしいほど面白かった。ススンテェを訪れた多様な年齢帯の観客達は興奮しながらも真面目に、そして慣れた態度で公演を待っていた。地域公演祭りが持てる美徳を華麗で有名な招待公演の質から探す必要はないだろう。公演を楽しむため自らススンテェを訪ねた観客にコチャン国際演劇際はもう真夏の日常になっていた。観客は更け行く夏の夜、万個の星に頼って人間の行為を一緒に感じて考えるだろう。実は、芸術が提供できるもっとも真率な価値とはこのようなことではないか。

水と山と林が一緒になった自然の風景を背景に人間の人工的な行為を生のまま表す野外舞台にこだわるコチャン国際演劇際は突然の夕立も強烈な日差しもたまに吹いてくる風も全部公演の一部として自然に受け入れように見えた。人間の技術集約的な日常は自然の流れの前には完全できないからいつも不安だ。野外舞台を考えながら完璧な公演の準備をしたとしても公演中の突然降る夕立を人間の力で阻めるわけがない。ただ、早く用意した雨合羽を着ること以外に人間にできることは何があろうか。コチャン国際演劇際はこのような自然の偶然性と突発性を舞台上に引っ張り込んで人間の行為と並んで併置することによって公演芸術だけが提供できる特別な経験として収容させる。ゲーテが言ったか。理論は灰色で私たちの暮らしは緑だと。それならば人間の暮らしともっとも似ているという演劇の色は何だろう。灰色と緑の中くらいではないか。生臭い草の臭いがする雨の中で人間が暮らしを、すなわち自然を模倣した仕種を見せることこそ灰色と緑の中くらいができるような一番真率な演劇の色だし、コチャン国際演劇際の色だろう。

偶然だと思うが日本の劇団COLLOLの「このままでそのままであのままでかみさま」はそのようなコチャン国際演劇際の特性を主題化した公演のように感じられた。「このままでそのままであのままでかみさま」は旧約聖書ヨブ記に出る「ヨブ」のようにもう戻れないこと、回復できないことを望む現代の人、そのような欲望のせいで孤独になった人間の存在に対して質問する。人間が孤独なのは何のためか。純真無垢な(Innocent)自然状態の中でも人間は孤独だったのか。自然から脱して自然を加工しはじめたから生ずる人間の欲望、例えばピカピカの銅のやかん、あたたかいウールのミトン、ひもでくくられた茶色の小包、ヌードル添えの子牛カツレツなど劇中で自分が一番好きなこととして出る人工物が結局人間を孤独にするのではないか。この質問を含んでいる「このままでそのままであのままでかみさま」の欲望する人間の姿はススンテェの自然の中の野外舞台と絶妙に対比され、さらに矮小に感じられた。COLLOLの演出家であり、女優の田口アヤコさんは「このままでそのままであのままでかみさま」の日本での公演はコンクリ―トビルの大きい倉庫を活用して上演したと説明した。がらんとしたコンクリートの倉庫の中で観客と役者が自然に混ぜられるように舞台を構成し、舞台の壁(ビルの壁)には映像を映したと言った。今回のコチャンでの公演は日本での公演と違う舞台環境のため慌てたが、逆に野外舞台を活用して自然と人間の孤独を対比しようとして映像効果の代わりにシンセサイザ―を活用した音響効果にもっと気を使ったと言った。

今回のコチャンでの公演も制限された舞台だが観客と舞台を一緒になるように悩んだ痕跡が探せた。公演の前、舞台と観客席には役者達が見つけられ、幕が上がると舞台中央に座っていた少女は旧約聖書のヨブ記1章を沈着に読み始めた。かみさまを仕える古代東方世界のお金持ちヨブはある日、自分のすべてを失って深い病までかかってしまい、自分の理解できない苦しみと患難に対して、何故神様が自分にそのような災難を送ったのか知りたくなる。神様の意味を知ろうとするのは以前の幸せな状態に戻ろうとするヨブの欲望から触発されたのだ。ヨブ記1章を間を置いて反復的に読む少女はすべて白色の衣装を着た役者の中にも、暗い夜ほのかな光の中にも特に目立つ靴を履いていたが、それはたぶん人間の欲望を象徴するためではないかと思われた。彼女がヨブ記1章を読む間に役者達はそれぞれ自分の仕種で踊る。彼らの動きは破片化されていて因果的に繋がらない。男女役者達はお互いに会うように見えるが会わない動線を持ちながら自分の台詞を口吟むが、これもやはり文節化された音響のように夜空に鳴って反響だけを残して去ってしまう。子供がほしいと言う女、言っても信じてもらえないから言わないという男、明日のことは知らないから今夜だけでも言い夢を見るのを望む女、'幸せ?'という質問に絶対に答えない男などお互いに重なって発火される彼らの希望は日常的で素朴だ。しかし、それを成就するのが不可能だという不安な暗示が彼らの反復される不安な仕種に含まれている。歩いて横になって転げて走ってみても彼らの仕種は繋がらなくて自足的に中へ去るだけだ。
その時、観客席で座っていた役者達も静かに動き出す。彼らは舞台外、つまり観客席まで広がった空間に立っていた点で舞台上での小さい幸福を追求する人物とは違う。そのためだか、彼らは誰かを目指して絶えず弓弦を引いたり、ブレークダンスと似ている踊りで観客席を通る。少しずつ舞台に向かって前進する彼らは舞台上の人物を圧迫する不可解な運命のようにも感じられた。舞台上の音楽の声は高まり、彼らの仕種も弾力を受け舞台の方へと前進しようとするエネルギが強化され、舞台上の役者達のエネルギと衝突し、観客席と舞台の緊迫な戦いが高まる頃、この公演の一番劇的な場面が演出された。急に夕立が降ったのだ。段々雨粒が大きくなる中で幸なことに役者達は全員舞台の上に集結していた。観客席で動いていた役者達がやがて舞台の上に上げて舞台上の人物達と一緒になる場面を演出したのだ。(公演が終わった後演出家は絶妙なタイミングで雨が降ったと言って大きく喜んだ)問題は雨に降られるべく観客達だったが主催側から機敏に配られた雨合羽を着たまま観客達は席を守った。彼らには急に降る雨も公演の一部であるハプニングだけだと思って大きく動揺しなかった。感動的だった。
 公演の後半、望んだ子供も幸福も結局はすべてイメージのみだとつぶやきながら落胆する人々が、でもまだは若いと思われたのは最後の場面のためだった。会えないようにすれ違った人々が最後の場面で男女ペアを作ってお互いに抱き合う。舞台上で抱き合う相方が探せなくて残られた男。彼は静かに観客席の女性を舞台に誘って深い抱擁をする。私はそのような希望に満ちている暖かい抱擁が現実でも可能かなとちょっと疑ったがススンテェの自然は急に出会った二人、韓国の観客と日本の役者の抱擁を静かに抱きしめた。若い役者達の熱情と意欲が満ちていたが日本特有の静かな節制が過度な演劇記号の量産を防いだ素朴で真面目な公演の終りだった。そのように美しい夏の夜が更け行った。


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