見出し画像

白井聡『武器としての「資本論」』の回想と、内外上下の左右論

白井さんは労働者の敵なのか?

早稲田大学で、社会福祉について研究をしている先生のゼミに入っていた。その先生は左翼といっていいであろう思想の持ち主で、社会的弱者との連帯を訴えていた。今でもたまに相談に乗ってくれる、いい人である。

大学生の当時、ぼくの高卒の両親は賃貸アパート暮らし、親戚を見渡しても大卒がほとんどいない中流(?)家庭で育ったがゆえに、その先生が教えてくれた社会の格差について「由々しき問題だ」と思った。当時はむしろ、先生の言うことに感化されるのに忙しく、彼自身の出自については立ち止まって考えていなかった。その先生は会社を経営している裕福な家に生まれて、別にそれを隠すわけでもなかった。ただ、なんとなく違和感があった。文句ではなく、「この人はどのような実感があって、社会の格差について語っているのだろう」という素朴な疑問のようなものだ。

大学を出ておよそ6年後、同じような違和感が、白井聡の『武器としての「資本論」』を読んだときに蘇ってきた。白井さんは元早稲田大学総長、白井克彦の息子である。平たくいって、お金も権力もある家の出身だと思う。その白井さんが『武器としての「資本論」』で「金持ち階級や資本家との戦い方」を「労働者階級」に配っているのを見て、これはどういう冗談なのだろう、と思ってしまった。本のどこにも、「実はあたしがラスボスだよ、覚悟しな!」とは書かれていないのである。それどころか、冒頭には「なかなかキツいアルバイトの店長が嫌なやつだった」という自身のエピソードが書かれていて、気分はすっかり「労働者階級」といった感じだ。いや、確かにあなたは「労働者」ではあるだろうけど、はたして「労働者階級」なのだろうか、なんて意地悪を思ったりもした(ちなみに本は面白い)。

裕福な家の子は格差について語っていいのか

そのような理由から、「資本家階級」なのに「労働者階級との連帯」をアピールし、リベラルと呼ばれるポジションから「右翼」を攻撃している人を見るたびに「どういうメンタリティ?」と思っていた。その謎が少し解けたきっかけが、つい一週間ほど前に見つけた松尾匡さんの「右翼も左翼の違いは世界の切り分けかたの違い」という解説である。

元の記事を読むのがいいと思うけれど、超簡単に説明するとこういうことだ。世間を「内」と「外」に分けるのが右翼で、世間を「上」と「下」に分けるのが左翼。その中でどこにポジション取りするか、という問題は抜きにして、まずはこの「着眼点そのものの違い」が右翼と左翼の最大の違いだ、と説明されている。

とても面白い。なるほどこの分け方なら、強力な「内」に守られつつ、「下」と同化することは可能なはずだと思った。右の「内と外」と左の「下と上」は、まったく別の切り分けになっているからだ。

右翼的世界の「内」の例は、「国家」「家族」「民族」「企業組織」などがある。生まれた時に決まっている部分が大きくて、境界がはっきり分かれており、人生で何度かしか移ることができない。

一方で、左翼的世界の「下」の例は「貧困」「マイノリティ」「労働者」「社会的弱者」等々であり、グラデーションになっている。ここには誰でも入ってくる可能性があって、明確な線引きもない。「性的マイノリティの資本家」もいれば、「裕福な障害者」もいる。

さらに、「内と外」は流動性が小さい反面、「下と上」には流動性が大きい。だから左翼はネグリ=ハートのマルチチュード論のように、簡単に連帯できる。それが人々の目に軽薄にも映る。どういうことか。

白井さんは「元早稲田大学総長の息子」という強力な「内」にいる人間である。ところが、場合によっては「下」に顔を出す。家に貯金が一億あっても時給800円のアルバイトをしたいと白井さんが言うのなら、誰も止められない。そして実際に、彼も「下」の大変さが普通にわかる。ところが、「外」かつ「下」の人から見ると、「本当の『下』の気持ちみたいなものは、強い『内』にいる奴にはわからないんじゃね?」と思うことがある。これが、ぼくが持っていた「軽薄さへの違和感」にも近い。ただ今となっては、これはみっともないだけの、ひがみのように思える。むしろ、本当は白井さんも、ゼミの教授も、こういう視点を内在化しているのかもしれない。自分の辛さを軽んじられたように感じて、傷ついたりしているのかもしれない。

むしろ語るべきだ、という当たり前の結論

「経済的に裕福な家」「社会的地位のある家柄」のような強力な「内」単位がある人だって、いろいろ大変だろう。たとえば「白井家」といえども政治の中枢に近づいて、「安部家」とかと仲良くなれば、もっと強力な「内」を作ることができるかもしれない。そういうことをしないで、別のもっと大きな「内」、つまり国家や大企業と敵対できるのは、すごいと思う。こういうことを素直に思えるまでに、ぼくは大学を出て8年もかかった。

語り口を変えるための提案

そのうえで、強めの「内」から「下」に連帯して言論活動を行う、左翼的なインテリたちへの心ばかりの提案が2つある。

右翼の「内」をあまり責めないで

もともと「内」がなく、寒くて暗い「外」にいて、何かの「内」に入りたい、居場所を見つけたいっていう人がたどり着いた大きな「内」、つまり「愛国主義」や「環境保護団体」が、排他的であったり過激な主張を展開していたとしても、そこにいる個人を馬鹿だと見下して、感情的に攻撃するのはやめたげてほしい。見ていて可哀想になるのである。

「下」ではなく「外」から、あるいは別の「内」から「内」と戦う

左翼が言うような、日本国政府や電通、パソナのような存在は労働者を搾取して裕福になり、マイノリティを弾圧し、社会的弱者を見捨てるというような指摘は、まさに左翼的な「上」と「下」の切り口と世界観に他ならず、国も電通も聞く耳を持たないはずだ。そんな悪魔みたいなことはしていない、と彼ら自身が本気で信じている可能性もある。彼らが右翼的世界観のなかで、「内」と「外」に分けていることこそが問題なのだから、「外を作らないで」と具体的に文句を言うことが大切なのではないか。あるいは、もっと大きな「内」を作ってぶつかり合う、お金や人材を送り込んで内側から変えてしまう、などなど。

おわり


白井さんのようなお金持ちが貧しい市民に武器(もちろんこの場合は『武器としての「資本論」』)を配る光景は、ちょっとアメリカとウクライナっぽいな、と思った。これはかなり意地悪だから、本文には書かなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?