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[読書] 神田千里『戦国と宗教』ー 戦国の人々と宗教の関わりについての新書。俗説の引っくり返しが大変面白い

ある年齢以上の方々は、日本史の教科書で習った「宗教を恐れない近代的な合理主義者である織田信長」、「加賀は一向一揆によって武士の支配に変わり、百姓の持ちたる国が成立した」、「豊臣秀吉は天下統一後にキリシタンたちの結束を恐れてキリスト教を迫害した」などの印象をお持ちであろう。この本では、主に戦国時代の人々や戦国大名と当時の宗教との関わりが書かれており、上記のような俗説を引っくり返しており、読んでて大変面白かった。日本中世において、中世の人々は「天道」という概念を持ち、伝来したキリスト教を含めた多種多様な宗派が共存共栄していた。織田信長、豊臣秀吉といった時の権力者も宗教に一定の配慮をせざるを得なかったのである。内容は多岐に渡るが、印象に残った浄土宗本願寺の中世での動向、織田信長、豊臣秀吉の宗教政策を書いていこうと思う。

中世における浄土宗本願寺派について

一向一揆勢が加賀を実行支配して、本願寺勢力が織田信長と戦った歴史的事実と、浄土真宗の開祖である親鸞が現世の権力を否定して内面の信仰を重視したことから、「浄土真宗(真宗)は反権力傾向が強い」と従来は言われてきた。しかしこのイメージは明治期に入ってから「想像された」ものである。明治時代のプロテスタントである内村鑑三や植村正久が日蓮、法然など鎌倉仏教の指導者をルターに喩えた。特に親鸞の教義はルターの信仰義認論と重ねられたようだ。近代に入ってから「真宗のプロテスタント化」が行なわれたというべきか。(P.45~P.49)

加賀一向一揆については、「百姓の持ちたる国」という言葉から、本願寺門徒が当時の権力体制から完全に離脱して、あたかも「独立国家」を建設していたかのように語られることが多い。しかしこの認識は実情から遠い。加賀一向一揆の時には応仁・文明の乱の最中であり、加賀領国内では東軍と西軍に分かれて争っていた。そこに真宗本願寺派と高田派との浄土真宗内の宗旨対立が重なり、本願寺は一方に肩入れしたに過ぎない。武士層を相手にした「百姓」の階級闘争であったとは断言できないようだ。当時の一向勢は加賀守護の富樫政親に対抗して、代わりに守護家一族の富樫泰高を擁立している。時代は下り、永正三年(1506年)に管領の細川政元が河内畠山氏討伐を行った際に、政元は本願寺に出兵を要請して、本願寺は加賀の門徒を動員した。この戦いの功績により、本願寺は室町幕府公認で加賀支配を認められるようになった。本願寺は室町幕府から加賀の守護に準ずると見なされており、段銭を幕府に納めたりもした。また幕府には本願寺担当の奉行も存在した。

戦国期では本願寺と織田信長は敵対関係だったが、本願寺は最初から信長に敵対していたわけではない。当時、本願寺は三好三人衆と誼を通じ、朝倉氏とは婚姻関係、浅井氏とは同盟関係にあり、信仰上の理由というより政治的な関係から蜂起した理由の方が大きい。本願寺が大坂から紀州国鷺森へ退去した後では、信長は全国の門徒の参拝を承認し、通行の安全を保障している。(P.67) 別に信長は本願寺を完全に滅ぼすつもりがなかったようだ。

宗教をも恐れる織田信長?


織田信長といえば、旧来の宗教が説く神仏を信じず、当時伝来した新しい宗教であるキリスト教に寛容であり、当時としては先進的な近代主義者の織田信のイメージを思い浮かべる人が多いであろう。このような「革新者」織田信長像が否定されているのが昨今の歴史学研究の動向である。信長は、多くの巻数(かんず、かんじゅと読む。寺社・神社が戦勝祈祷のために読誦した経典の巻数を記し祈禱したことを示す文書)に対する多くの礼状を送っている。出陣の際には祈祷を依頼し、戦場では法華宗の題目を掲げて身の守りをしていた事から、何ら他の戦国大名と変わりはないようだ。(P.41) キリスト教に寛容でイエスズ会を優遇した織田信長の姿は、イエスズ会側の史料にしか見られず、これ以外には『信長公記』や江戸時代に成立した『吉利支丹物語』には、日本側には見当たらない。(P.111) イエスズ会の史料(『日本通信』)によれば、荒木村重の謀反が起こった時に、高山右近を離反させるため、信長はイエスズ会の宣教師であるオルガン・ティ―ノを使者として送ったが、説得が失敗したならば五畿内のキリスト教を宗門断絶すると伝えており、とてもじゃないが、信長はキリスト教に寛容であったといえないだろう。どうやらこの信長像はルイス・フロイスが『日本史』による記述の中で作り挙げたようである。他にも法華宗と浄土宗による安土宗論は、中世で頻繁に行われた自力救済の否定が背景にあり、当時盛んに宗論を仕掛けていた法華宗に掣肘を加える意図から浄土宗側に軍配を挙げたようである。

豊臣秀吉の伴天連追放令について

天正15年(1587年)に時の天下人である豊臣秀吉は伴天連追放令を出したが、追放令で対象とされたのは飽くまでキリスト教宣教師であり、キリスト教全般やその信仰については迫害の対象とされていない。しかも伴天連追放令は、宣教師側の嘆願によって実行に移されなかった。伴天連追放令の背景には、イエスズ会の人身売買やイエスズ会が伊勢信仰を破壊の対象としていたことがあり、他宗派を排斥するイエスズ会にかなりの問題があったようである。

わずか200ページで中世の人々の宗教への接し方、宗教に対する態度を大まかに知る事ができるので大変お薦めである。安価な新書でこのレベルまで書けてしまうのは正直すごい。某経済評論家の安直な日本史本で貴重な読書時間をドブに捨て去ることなんかしないで、こちらを読むことをお薦めする。人生は短いのだから。

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