ネットの海でおぼれそうになった話。


はっきり言って、この話題にはあまり興味ないのだけど。

先日、雨上がり決死隊の宮迫がYouTubeで謝罪動画を投稿し、その翌日にはロンブー亮が復帰会見をした。二人の真剣な眼差しを見て、ああ、苦しいながらも新しい一歩を踏み出そうとしているんだなあと純粋に思った。

再出発。思えば人生は再出発の連続だ。朝がくるたび、新しい月がはじまるたび、タイムカードを押すたび、便器から立ち上がるたびに、出発しているのだ、われわれは。

二人について様々な人が好き勝手に自由に意見を言っている。芸人仲間、タレント、ご意見番、そして一般の大衆。特に多かったのが宮迫に対する批判的な正論。対照的に、亮の復帰会見は好意的な意見が多かった。

具体的な批判の内容にまでは言及しないけれど、再出発をしようとする人間に厳しい声を浴びせているその多くがポジショントークに思えた。最初は「ああ、そんなもんなのかね」くらいのものだった、最初は。

だけどしばらくすると、自分のことを嫌だなあと思ってしまった。たくさんの意見を聞いたり読んだりしているうちに、どんどん影響を受けて自分の内側に無意識に宮迫への悪いイメージが醸成されている。誰かから植え付けられている気がする。俺を操っているのは誰だ、出てこい。

もし自分が二人の会見を知った後、ポータルサイトや動画配信サイトやSNSなどの情報に一切触れていなければ、当初の「苦しいながらも新しい一歩を踏み出そうとしているんだなあ」という応援のような薄い関心で終わっていただろう。

怖いなあ。情報を浴び続けていると自分を見失いそうになる。邪悪な世界に引き込もうとする霧のようなフィルターがネットの世界にかかっている。視界がさえぎられ、迷子になる。迷子になるとどうなるか。時間が奪われ、背骨が曲がり、心のねじがゆるみ、他人の意見を自分の意見のように言うようになる。味方のような顔をして近づいてくるポジショントークにも、八歩美人の綺麗事にも、笑顔の同調圧力にも要注意だ。

でも知っている。

情報を遮断して一人になったら自分の存在が消えてしまうことを。

自分という存在は、他人があるから存在している。他人が自分を認識しなければ自分はいない。きっと外部とのつながりを絶てば静かに自我は衰退していく。

私たちはお互いを認識し合って補完しあって存在しているのだ。そうだ、あなたがいて私はいるのだ。私がいてあなたがいるように。チャーリー浜かっ! 

実はみんなつながっている。他人なんていない。地球の裏側で何かが起こっていても無関係じゃない。知らんけど。(知らんけどって言えば許される)

ああ、一昨年に禁煙したけれど一本だけ煙草を吸いたい。箱で買うと全部吸わなきゃいけないから一本だけがいい。心の中にたまったモヤモヤした何かを煙にくるんで吐き出したい。


渚に裸足で立つだけで、寄せる大小の波に足がもっていかれそうになる。その場でじっと立っているのが辛くなる。満潮になれば水に浸かって呼吸もできなくなるかもしれない。

それでも。

泳ぐのが下手でも向かっていくのだ、その広い海に。心の足腰を弱いなりにビシッとさせて、覚悟を決めて。そして耐えろ。そうしないと、もっと自分が見えなくなる。



#エッセイ


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