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読書と戯言「詩歌と戦争」:すこしだけ文劇3のはなし

 先日「詩歌と戦争/中野敏男著」を読んだ。

 この本を読むきっかけは、2月に上演される文劇6 戯作者の奏鳴曲(以下、文劇6)の観劇の、いわゆる予習のためであった。

官僚がつくる「唱歌」に猛反発した北原白秋は「童謡」を創生し、震災後の社会に受け入れられて国民詩人の地位を確立する。自治への欲求を高めて大正デモクラシーを担った民衆は、詩人に作詞を依頼して「わが町」を歌いあげる民謡に熱狂した。拡大の一途をたどりつつ国民に奉仕を求める国家、みずから進んで協力する人々、その心情を先取りする詩人、三者は手を取りあうようにして戦時体制を築いてゆく。“抒情”から“翼賛”へと向かった心情の回路を明らかにし、戦前・戦時・戦後そして現在の一貫性をえぐり出す瞠目の書。


綴リ人の輪唱を観たときのこと

 文劇3 綴リ人の輪唱(以下、文劇3)は、ほとんど予習せずを観劇させていただいた。

 強いていうなら以前に「北原白秋 言葉の魔術師/今野真二」と白秋の著作をかい摘んで読んでいた。

 結果、なかなかに満身創痍になって帰るはめになる。テーマといい、演出といい良くも悪くもかなりエッジの効いた舞台だった。

 あの舞台を、あの時、劇場で観られたのは、本当に幸運なことだったと思う。


 あんな題材だったものだから(これは褒め言葉だ)、当然帰りの路線バスの中では顔面と心がぐちゃぐちゃだった。

 真後ろに座っていた若い男性2人連れがもののけ姫の歌(はりつめた〜という歌、タイトルを失念してしまった)を歌っているのが、やけに微笑ましかった。

 同時に平和に歌を歌えていることにほっとした気持ちにもなった。


白秋作品にあるこころ

 今日1/25は、北原白秋生誕の日である。そして奇しくも私自身もこの日に生まれた。この偶然もあってかどことなく勝手に親近感を抱いている。

 文アルがきっかけで北原白秋の作品を読むようになった。それまでは雨ふりやアメンボ赤いな、くらいしか彼の作品を知らなかった。

 嵌ると深い詩人である。深いというより広いと形容した方が近いだろうか。


 初期の耽美な作風から中期の童心を主軸に置いた作品、そして後期の漢詩調の短歌や翼賛詩。

 その作品群はきっぱりと分かれているようでもあり、グラデーションのようにひとつの流れに沿っているようでもある。


 白秋は字面の美しさだけでなく、音の響きにもかなりのこだわりを持っていたようだ。

 彼の詩作人生が描かれた映画「この道」では、童謡「からたちの花」にメロディーをつけるにあたり、「歌詞の最後の『〜よ』には、すべてに違う意味がある。ひとつひとつ違う音階にしてほしい」と、山田耕作へ依頼する場面が描かれている。文劇3を観た方にはぜひ観ていただきたい。


 そうやって丁寧に吟味された彼の言葉の数々は、多くの人々の心を動かした。

 自身の経験として、それなりの期間体調を崩していた時分、薄明消息の中の「薄明の中にこそ見えるものがある」という言葉に救われたことがあった。


 そんな白秋作品の根底にあるのは「さうして日本を愛するならば」である。

 作品集「水墨集」の序文「芸術の円光」の中では、日本の言葉をもって日本の詩を、と書いている。

 これは、後期の作品集のため、愛国心(と表現していいのだろうか)が色濃いことも起因していると思う。


 ここにあるのは、望郷や郷愁である。

 それは童謡のための心温まる詩だけでなく、翼賛詩に関しても同様だ。

 軸がブレてるわけでも、騙されたり脅されたりして作ってるわけでもないはずである。この2つは決して相反しない。


 作風の変遷から見ると、その強い感受性ゆえか環境の変化の影響をもろに受けやすい人物であるように感じる。

 愛する国のために何か行動することの手段として、翼賛詩を作り出していたのだろうか。



 文劇3の劇中で白秋は戦時下でもがきながらも道を作り、後進に光を差し示す先達的役割を担っていた。

 しかし前述したように白秋は、軍国主義に利用された詩人ではなく、自発的に翼賛を扇動した詩人という側面を持つ。

 今後翼賛詩人として登場する可能性は十分あると思っていて、文劇3はその布石のような予感もしている。

 文劇6では少なからずその伏線回収がされるのではないか、とひとり戦々恐々期待している。

 特に「利用されたこと""あったのだよ」の台詞は見事と言わざるを得ない。

「作品自体を利用されたことがあった」とも聞こえるし、「翼賛詩は書いていたが、それ以外の作品も翼賛に結びつけられた」と聞くことができる。

 文章を書く上では主語や修飾語、述語ばかりに気を取られがちだが、助詞の選定の重要性が改めて身に染みた。


戦争と藝術

 唱歌教育からの民謡ブーム、そしてラジオ放送の華麗なる言語統制と国民への意識統制の流れは、あまりにも鮮やかすぎる。

 詳しい流れとしては、民謡ブーム→日清・日露(どちらも勝戦勝)→wwi(戦勝)→赤い鳥運動→関東大震災→新民謡ブーム・民藝運動→wwii(敗戦)といった動向である。


 なぜこの本に登場しない民藝運動を入れたか。

 それは到底無関係とは思えなかったからだ。

 作中には明治20年代に民謡ブームがあったとの記述がある。時を同じくして民藝運動も明治26年ごろから始まったとのことだった。

 そして、この民藝運動もまた民謡ブーム同様、地方庶民の生活文化に焦点を当てた運動だった。

 民謡ブームと民藝運動。この2つの流行は果たして無関係の偶然といえようか。



 また、幕末の廃刀令の後、刀や付随する装飾を製作していた各分野の職人を救った、と言われているのが帝室技芸員制度である。

 最近では「明治工藝」としてその超絶技巧的表現が注目されている工藝品群は、帝室技芸員たちによって作り出されたものも少なくない。

 この頃は世界的に万国博覧会なども盛んに開催されており、世界的お国自慢ブームでもあった。

 彼らの作品は世界各地で催された万博で披露され、国外からも高い評価を得た。

 この頃の国家と技巧のある職人たちとは少なからずwin-winの関係であったことと推察する。

 実際それらの美しい工藝品は輸出され、珍重され、ガレやラリックなど海外のアール・ヌーヴォー期を支えた工藝家たちに刺激を与えた。

 余談だが、海外では輸出品を解体し、製作者側の意図しないかたちで、リメイクして使用されることもあった。これがなかなかおもしろい。興味があれば紅毛漆器や南蛮漆器で調べてみていただきたい。


 また、陶磁器などを包んでいた浮世絵がゴッホらの目に留まったことで、西洋絵画にも影響を与えることになる。

 そして、これまた時期を同じくして起きた民藝運動。

 柳宗悦、河井寛次郎、富本憲吉、濱田庄司、バーナード・リーチらの興したこの運動は、超絶技巧的な美術工藝へのアンチテーゼでもあった。

 暮らしの中の美、"げてもの"の中にこそ美がある、という考えを主に庶民生活へスポットが当たった。この運動は京都や島根をはじめ、全国各地に広がった。

 こうして富裕層、庶民問わず愛国心が育まれた。

 これもまた武器を交えない戦争というやつだったのかもしれない。

 とはいえ、各地では実際に武器を用いた戦争が勃発していたのもまた紛れもない事実。まさに総力戦だったのである。


画策された郷愁

 「唱歌教育は、国家主導の言語統制教育とは言い得て妙だ。


 西洋曲をベースにして古き良き日本の風景を歌う外国産の郷愁

 これは自国からの自然発生ではなく、第三者(ここでは国家)による画策された郷愁だった。また、歌に乗せて言葉を発することでイントネーションなども身につきやすいと考察されている。

 そしてこれは余談だが、「唱歌教育初期の「蛍の光」「ちょうちょ」は西洋曲で〜」の記述について、文劇5 嘆キ人の廻旋で海外文学への忌避の場面があった?というツイートを拝見したことを思い出した。

 残念ながらこちらはまだ観劇できていない。文豪と呼ばれる作家で一番最初に触れたのが、芥川龍之介の杜子春だったので後々配信などで観ようかと考えている。


 閑話休題。一方で、方言の統一(=標準語の発生)がなければ、現在もバベルの塔状態であったかもしれない。そのものの行為は悪ではなく、ひとつの国として成り立つにはいずれ必要なことだった。

 言語を統一したことで、国内では思想の共有が容易になった。

 これは、より簡単に強固な愛国心の育成や思想の統制ができるようになったことも意味している。


 また少し話が逸れるが、私の出身は関東で、東北に暮らしていたことがあり、今は関西に住んでいる。死ぬまでに47都道府県上陸を制覇したいと思っている。

 各地の方言には、標準語にはない絶妙なニュアンスが表現されている語もあり、とても面白い。

 標準語の提唱から約130年前、現在にも方言が残っていること、それはその言葉がその土地で愛されているという証拠である。そのことをとても嬉しく思う。


存在しない故郷

 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と詠ったのは室生犀星だっただろうか。

 故郷、ふるさととは、生まれ育った土地である。ゆえに想う時にはもう存在していない

 幼いころ遊んだ空き地は高層マンションや真新しい住宅街へ、小銭を握りしめて行った商店街はショッピングモールへ。時間の経過につれて多かれ少なかれ土地は変化していく。

 生まれ育った彼の地はもうこの世のどこにも存在せず、永遠に失われてしまっている。


 土地だけではない。気候もまた然りだ。子どものころなどは、夏場で35度といったら信じられないほどの猛暑だった。現在は35度と聞くと今日は暑いんだな、程度の認識に変わってしまった。

 あの頃はよかったなあ、と在りし日を懐かしむ、それが郷愁であり望郷である。

 戦時中の日本の侵略行為については、自国の強さを見せつけるということに加え、故郷を拡大するという意識(願望)もあったのではないか、とも思っている。


一体何を取り戻すのか

 スクラップ&ビルド。私は常々この言葉にどことなく違和感を感じている。一番近い感覚としては、いづい、である。

 スクラップ&ビルドは破壊と創造である。

 スクラップには、切り屑や破壊、廃棄といった意味がある。対してビルドの意味は、組み立てる、作り上げる。そして、スクラップ=破壊には、2種類ある。「壊した」と「壊された」だ。

 「壊した」は、自ら望んで破壊する行為である。

 文章や物を作る時、ちょっと1回壊しておくか、という気持ちになったことはないだろうか。私はたびたびそのような気持ちになる。

 ちょっと休憩、というのも、継続していた行為を中断(破壊)し、休憩ののち再開(創造)するから、広い意味ではスクラップ&ビルドであるともいえるかもしれない。



 対して「壊された」は、本人の望まないかたちで破壊されてしまった状況にある。その代表例は天災だろう。

 望まれずして破壊されてしまったスクラップ。それに対するビルドは、復興である。

 復興とは、衰えてしまったものが再び勢いを取り戻す様子を指す。この復興でよく使われる語として「取り戻す」がある。

 個人的には、取り戻す、という考え方は不毛だと考えている。なぜなら取り戻したいものは当時の姿から永遠に失われてしまったからだ。


 失われた過去を擦り続ける行為で出来上がるのは、精々最上級の劣化版だ。これはあくまで思考のプロセスの話である。復興という行為自体を不毛だと思っているわけではないことを明記しておきたい。

 しかし、以前よりもより良く、という思考にシフトしなければ同じところを回り続けてしまうだけである。水は循環させなければ、澱んで腐ってしまう。

 にも関わらず私たちは取り戻したいと考えてしまうし、思ってしまう。これはもう人間の本質、業であると言わざるを得ない。

 美化された記憶、すなわち思い出というのは、時として厄介だと感じる。記憶もパソコン上のゴミ箱のように自由に削除できたらいいのに、と思ったことは一度や二度ではない。まあ、削除したいのは大抵悪い記憶の方なのだが。

 そしてこの悪い記憶というのは時折、自己防衛のためにその事実を歪ませ、美談化してしまうことがある。

 被害者意識と当事者意識は、≒であっても必ずしも=ではない、ということを自身の戒めも含め記しておく。

 この混同がおそらく、いづい、の正体なのかもしれない。


 また、作中には「犠牲やリスクを不平等に配分する差別的秩序」とある。

 この本が出版されたのは2012年で、震災後にもこの差別的秩序が人々の中に無意識的にあったと記されている。

 これはコロナ禍を経た2023年現在にも通ずるところがあると思う。


あとがき

 普段はほとんど戦争や人の意識に関して話題にすることはない。

 読み返すと強い言葉を使っているなあ、と感じるところも多々あるが、特段強く尖った思想を持っているわけではない。協調性のない人間の一時的な戯言と思っていただければ幸いである。

 今回の予習、心の準備という意味では、多少の効果があるだろう。観劇後、必要以上に心理的ダメージを負う可能性もある。

 例えるなら、視力0.1未満なのによく見える眼鏡をかけ、スプラッタ映画を観てしまった、というような感覚。つくづく学習しない人間である。

 文劇3で詩聖として描かれた白秋が文劇6でどのように描かれていくのか。舞台上でどのような詩が奏でられるのか。今から楽しみでならない。

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