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精神性の格差

東南アジアのブランチ含めて出張に行ってきました。ホーチミン(ベトナム)→ジャカルタ(インドネシア)→ハノイ(ベトナム)→バンコク(タイ)→沖縄というコース。海外にブランチを展開しているので現地のメンバーがいます。そうやって仕事をしていると、いわゆる旅行とは違って生の生活というか日常を感じることができます。日本でも引越しするときに日常を浮かべながら街を歩いてみたりすると思うけど、そういうイメージです。

東南アジアや東アジアは特に中国文化の影響を受けていることを感じます。分かりやすいところでは、旧正月、春節ですね。今年は辰年、Dragon Yearなので、ショッピングモールとか至る所で龍のモニュメントを見かけます。干支がこんなに広い範囲で共通なのはやっぱりすごいなぁ、と感じます。もちろん文化だけでなくて商業的な意味もあるだろうけど、ただのキャンペーンみたいな借り物っぽくない空気もある。

仏教やイスラム、儒教的なもの、歴史的に影響を受けた欧米的要素と、地域的な特徴が入り混じった文化があって、それぞれの経済状況と政治的方針、そういうことで働くことや生活の価値観に影響しているんだろう。宗教の違いとかルーツについても日常で普通に困るから会話するし、お互いに当たり前のこととして馴染んでたりする。奥が深いなぁというか、そりゃそうか、という気持ちになる。

一方で、日本で言われている「ダイバーシティ」とか「多様性」って、日本人が日本人の中で言っていることが多いので、なんか狭いんですよね。そのことが弊害というか制限みたいな方向になっているように感じる。本来は、同じ目的で集まったチームだけど、全然違う価値観やカルチャーがあるから、それをお互い受け入れながら一つのゴールに向けて発揮しあおうぜ!、ということだったはずでは。

ポリコレ批判っぽい話になっちゃうけど、個人的価値観含めて尊重をして許容するためにお互いを制限をする、的な方向に行くことがある。
当然だけど、色々な価値観の人たちを束ねるとなると、相反する価値観も存在するのは当たり前になる。企業のシステムとしてそれを内包すると、ゴールに向かうための合理的な選択をするためにルールを厳格にしていく。ただ、マネジメントを強固に整備することでチームが得られるものと個々の力が比例するって単純な話なら楽なことはない。仕事における人間関係がより重要性を増していく中で、ルールを前提に価値観を束ねるので良いのか、そもそも価値観が違う人をチームに入れないというのもある。もう好きな人としか仕事しないしお金は別にどうでもいい、という選択肢もある。ただ、お金もらえるならできる限り人間関係に関与しない、という選択肢は将来的になさそうだ。

む。そんなことより。足元の今やれることをしっかりやること、関わってる人たちと同じゴールを見ながら良い時間を過ごせることを大事にしたいなと思う今日この頃でした。

沖縄ではMOM FoR STARというシングルマザーのみんなと働くプロジェクトをやっています。次は4期目。関わった子供達も30名を超えました。彼女たちも足元の大事なことに向き合って頑張っています。

多様性の前提は同じゴールですが、僕としては、そもそも働くことに対する向き合い方で格差が生まれていくと予想しています。職能と言われる専門性の価値が逓減して、超専門性を持った一部だけが研究職のように残り、中間層が淘汰されていく世界になると考えています。その時に、令和の時代にいつの間にか失ってしまいつつある「働く意味」を持てるか、で格差が大きく広がっていくと思っています。技術的進歩で能力の差が見えづらくなったときに、どんなゴールを目指すのか。ジャイアン的なものがホワイトなパッケージに包まれていく世界ですが、もっと熱量ドリブンの何かにより戻しが来るかもしれない。


本コラムは、アジアを中心に展開するデザイン&テックカンパニー「フォーデジット」の社内報にて連載中のものを編集して掲載しています。

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