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海へ

 ひどい酷暑だった。冗長的だけれど、そういって差し支えないくらい不快な朝だった。ほとんど徹夜だったと思う。僕らは色んな意味でやりきれない思いを抱えたままオフィスを後にした。このまま自宅に帰るにはあまりに不条理な現実を消化しきれないと思ったから、その晩、僕らは飲み明かすことにした。
 ほとんどそれは衝動的なものだった。「湘南新宿ライン」とかいう名前が良くない。赤羽駅からそれに乗り、オフィスに最寄の渋谷を乗り過ごしてしまえば、本当にあの海へと向かうのだから、この路線は。

 そのアイデアを先に口に出したのが彼だったのか僕だったのかは今となっては大した問題じゃない。とにかく僕らは疲れていたし、創造的な時間を欲していた。いろんなものから解き放たれたいと渇望していた。渋谷駅が近づいたとき、かつてないほどドキドキしていた。降り立つ人たちを横目に扉が閉まったその瞬間、僕らにはまだ見たことのない世界が拡がり出した。
 「恵比寿」「大崎」「西大井」…。夕べ飲み明かした疲れがどっと出てきたのか、突然の強い眠気に襲われていく。「武蔵小杉」「横浜」。窓に頭をあずけてうとうとしたまま、電車は「大船」を過ぎる。「鎌倉」を過ぎたあたりで少し目が冴えてきた。程なくして逗子駅に到着した。さあ、渚へ。

 僕らは当然のように地図など持っていなかったから、駅前から国道の標識とか、サーフボードのショップとかヨットスクールの看板、流れてくる潮の香りとかを頼りにして歩き続けた。僕は肩にビジネスバックを担ぎ、彼はそれを脇に抱えて歩いていた。革靴を履いた足の裏でアスファルトの道路にざらつく砂の粒を感じた。
 ほどなくしてコンビニの向こうに堤防が見えてきた。よれたワイシャツとスラックス姿のままで乾いた浜辺に降り立つと靴が砂を噛んだ。しばらく歩いてから裸足になった。

 サーファーに交じって砂浜を歩むサラリーマンの姿は滑稽だったかもしれない。酔いの残った僕らの目に、渚は随分まぶしかった。僕らはクリエイティブな時間を歩んでいた。この上なく解き放たれていた。

 あの砂浜を見るたびに今も鮮やかに思い出す、夏の日。

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