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Introduction②-PTDin Las Vegas~防弾会食

久々の更新になりました。
前回、PTD in Las Vegasコンを行かない選択をしたトコで終わりましたね。
続きになります^^

Las Vegasコンの頃になると、海外参戦のイルアミさんも多く
やはり意を決して行ってきます!的な投稿も目にする事が増えました。
帰国後の対応も少し緩くなった。と、言っても、まだ帰国後の隔離もあったし。航空券含め、高額な海外旅行になるため、
「イルコンで、日本全部行く気だから、待ってる~」
なんて、のんきな私は、ベガスコンもオンラインコンサートやメンバーのSNSなどで楽しませてもらった。

ベガスコン、最終日に、「PROOF」で、6/13カムバックのお知らせを受けた。もう、期待でいっぱいだった。
その前の年の、Butterで、カムバしたあの衝撃を思い出し、ワクワクしかなかったのだ。

5月、待てど暮らせど、イルコンだけではなく、ワールドツアーのお知らせも来ない。。もちろんアルバムの詳細が出てきて、カムバ待ち。みたいな気分だった。曲名が出て、湧いて、毎日何かしらのティザーが出ては盛り上がり、その盛り上がりは、もう、カムバと同時に世界ツアーだろうと、思い込んでいた。

忘れもしない、Yet To Come の公開の日だったか、
LIVE配信の時に、テヒョンさんと一緒に(Vライブしながら)みたあの日

何かわからないけど、違和感があった。
ダンス無しで全員座っていたこと。や、その時のVライブで、
「会食?あぁ、いつも通りの食事会ですよ」的な発言をしていて、
いつものテヒョンさんなら、
「アミ達楽しみにしていてくださいね。」とかスポしそうな感じなのに、、

このことに、すごく違和感を感じていた。。

その後、会食の配信があり、、、

会食中に、ワールドツアーのお知らせぶっこんでくる。
と思い込んでいた私は、
シリアスな話に、衝撃が収まらなかった。。

7人のLiveを、生きてみる事ができないかもしれないと。
その時の私は、ソロ活を喜ぶこともできず、泣いて話す内容の動画を、
何の意味も考えられず、悲しいしか、感情がない状態でした。

その会食の日は、いろんな方の、スペースを聞いて、夜な夜な翻訳してくださっている方のツイートを追いかけ。
バンタンに何が起きているのかの把握をするのに、一生懸命だった。
数日間は、ナムさんやグクの涙の意味を考えては、何が起きているのか
本当はどうなのか?という事ばかりを考え、考察を追いかけ。。。

そして、7人のコンサートを見れない事の衝撃がすごく、動揺していたのと同時に、落ち込むしかなかった。

Las Vegasへ行かない決断をした自分を責めて、責めて、責めて、責めて。。。
泣いてばかりの日々だったし、
ソロ活含めて、現状を受け入れられなくて、
バンタンのコンテンツも見れなかった。


「あいたい・なんで?・どうして?・死ぬ前にあいたいよ」と、その言葉がグルグルと脳内を占拠していた。

会食後は、日本のメディアでも、「BTS活動休止」や解散を思わせるような記事もたくさん書かれていた。。
(1年たった今も、ナムさんの本当の涙の意味も正しく知ることができてはいないが…)
会食は、ところどころ、放送できないのか、編集されていたのもあり、真意が伝わりにくく憶測の記事も多かった。

会食から数日後に、グクがVライブをしてくれて、ナムさんもVライブしてくれた。それでも、7人で活動しない事ばかりを考えては落ち込んでいた。

7月に入ってもなお、
「死ぬまでに会いたい。バンタンに会いたい。
ベガスになんでいかなかったの?」
と、自分を叱咤し、とにかく、行かない決断した自分を責める事しかできなかった。

そんな中、コロナに感染してしまう。。
ちょうど、ホビのロラパルの頃だった。
ベッドの中でホビのパフォーマンスを見て、
ステージでひとりで戦ってる姿を見て泣いた。。。

ホビペンさんたちが、後悔したくないと渡米している姿を羨ましく思ったけど。基本7人揃ってる、姿が好きなオルペンの私は、ソロ活よりも、7人揃ってのパフォーマンスを見たかった。と思いつつ。ホビのパフォーマンスは私を励ましてくれていた。。

ちょうど私がコロナに感染したとき、東京で1万5千人が感染していた。
ホテルの隔離も、基礎疾患がないとできず、基本的に自宅療養だった。

私は、感染して発熱した後10日間コロナウイルスの全ての症状が出続けていて、とにかく症状に苦しめられていた。
8月いっぱいは咳がとまらず、息苦しく、10分外に出て歩くのも苦痛で、そんな後遺症が残ったほどだったが、それでも軽症といわれていた。

感染して、1週間したころ、昼頃から息苦しく、咳も止まらず、胸が押さえつけられる様な圧迫感で、夜になっても治まらず救急センターに電話したけど、
薬飲んで、翌朝もしんどかったら、また電話くださいと言われ。
「今夜このまま息絶えるのかも」と思った日があり、
そんなときでも、「私はバンタンに会いたい。このまま死にたくない。」という想いと、「ここで死ぬなら、何故ベガスに行かなかったのか?」
と、とにかく、そんな風にバンタンに会えない事ばかりの感情で、後悔しかしていなかった。

そんな中、釜山での万博誘致コンサートをバンタンがするという情報がでた。もう、奇跡だしそれは何があっても絶対行きたいと思った。

ただ、後遺症がとにかくひどく、感染後1か月以上、咳が続き、外にもまともに出ておらず。。
体力的に、あの頃は社会復帰さえ無理だと、普通に生きていけるかさえ不安で1日中布団にいる日もあった。

そんな中、コンサート詳細と案内、
会場や、チケットルールなどの要項が発表になった。
実際に、ウィバスでも、エントリーが始まった。

いくの?行かないの?ではなく、普通に動けるのかどうか?呼吸もだけど、成田空港でさえ行けるのか?この後遺症がなくなるのか?不安だったし、
1人で渡韓すると最初から決めていたので、

倒れたら迷惑になるな。とか、自分の身体が不安で、
今回も諦めるかな。と思っていた。。
体力的に回復して行ける自信がなかったし、元の身体ってどうだったかを
忘れてかけていたのだ。。

会場は、釜山から西北に行ったところにある「日光」という駅から徒歩15-20分の海沿いの会場で、その時点で、「さら地」だった為、過酷なライブになることは想像できていた。誘致として人を呼べる場所ではないから。

また、その会場なら行かない。というアミも多かった。

釜山へは福岡に住むころ、気軽に行ける旅行先で、
何度となく行っていたこと、
釜山なら何かあっても大丈夫かな。と、土地勘もあり、知り合いも居るので、安心感があったのも事実。

辺鄙な会場の往復もどうにかなるだろうし、最悪、野宿だな。って思ってた。
そんなアミたくさんいるだろうし。
きっとツアーバスだって出るよね。とか。

あと、最後まで決め手になったのは、会場に座席があり指定席だったこと。
最初は、平坦な段差のない会場に椅子を置くとなっていた。
とりあえず私が行くのを決めたのは、椅子だった。座れるから。。
何時間でも待てる。座れるなら。と。

ただ、会場の不安より、自分の身体がしんどくて、
エントリーするかどうか悩んでいた。
すると…
エントリー期限まであと1・2日のところで、なんと、嘘のように身体が軽くなり、後遺症が抜けたのだ。
それはもう、別の人の身体になったかのようだった。

そこからは、はやかった。
「行かない。って選択肢は私にはありません。このまま死にたくありません。釜山コンに行ってきます!」
と、家族に渡韓を宣言し、
とにかく、バンタンに会いたい一心で、エントリーした。

ちなみに、飛行機と、ホテルは、コンサート案内が出たタイミングで、
行くかどうか?決めてなかったけど、予約はしていた。

日光にほど近い、海雲台のホテルはすでに、完売しているところが多く、

それなら、日光まで1本で行ける、釜田のイビスアンバサダーに、と思ったら、すでに満室。
ならば、「西面駅周りで予約すれば何とかなるな。」と思って、検索すると、1泊16,000円程のホテルが軒並み残っており
それなら、しっかり夜にでも、ゆっくりホテルを見ようと思って。
エアチケットだけ取って、PCを閉じた。
夜寝る前に、ホテルでも確認しようと、サイトを見ると、
1泊30,000円になっていた。。。

OMG...
慌ててPC立ち上げて、ホテルを探し、
2021年、コロナ禍で建ったホテルが「市庁駅」の近くにあり、
とても綺麗だったのに。金額も13000円/1日程度で、
その時期の相場では安く、そこに金曜・土曜の2泊の宿を取った。

飛行機は金曜に釜山入りする飛行機がとれていたので
ホテルも2泊予約。

おバカな私は、その時点で、すでに釜山コンチケットも当たった気分だった。そして日光までの、タクシーのチャーターや、ツアーバスを探しておりました。。
そして、そのころ、テテキキのアカウントを動かし始めました。

そう、不思議と、行けると信じて疑ってなかったのです。。

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