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病院でさようなら

40代ともなると親が体を壊したり、病気になったり、早い人は亡くす人も出てきます。事故や事件に巻き込まれたり、もっと早くに急死して死別するよりは幸せなことですが、どうやってお別れするか?というのは時代によって変わってくるのだな、とつくづく思いました。

母は70歳を迎えましたが、去年まで自身の母親(私から見て祖母)が生きていました。20歳の時の子なので90歳。ここまでくると寂しさとか悲しさとかあまりないみたいで、自分も歳を取って体のあちこちが衰えてくるから、お互いさまになるというか💦親子っていうかどっちもおばあちゃんじゃん、って感じになるようです。

そんな私の母は、今年の6月急性心筋梗塞で倒れました。

急性心筋梗塞はある日突然やってきて、そのまま一瞬で終わる人もいれば、2時間以内に治療することで一週間で退院しそのまま普通に生活できるという心臓の病気です。心臓のダメージ自体は不可逆ですから徐々に弱っていくのですが、上手くコントロールすれば余命を伸ばすことができます。これがまたとても個人差が大きいらしく、治療の効果も人によるそうです。薬がよく効いてコントロールできる人もいれば、合併症に苦しんだり、何度も発作を起こしたり、その人のポテンシャルによってだいぶ違うらしく、お医者さんにも予測不能だそうです。

母は以前から生死観がだいぶまとまっていたので、発作を起こした時『自分はこれで終わるんだ』と思ったのだそう。悔いなし、というタイプなので潔いっちゃ潔いですが、こういう人に限って一日中痛みに耐えても発作が終わることはありませんでした。

そして、耐えかねて自力で循環器クリニックへ駆け込み、そこからは救急車で大学病院のICU直行です。診断名は『重症心筋梗塞』でした。

もう助からないくらい状態が悪かったので、コロナ禍でも私たち家族はICUで面会することができました。その時の母は意識が鮮明で、相変わらず『助かっちゃったよ…』などと言っていました。主治医の先生は『延命にすらならないくらいの処置しかできませんでした。心臓のダメージが大きすぎて』と言っており、入院にあたり大量の同意書にサインしました。

私達家族も母の意思はよく聞いていたので慎重に、延命にはならないか?という確認をしながら進めていきました。

6月半ばに入院となり、ICUを出るのは3週間。私達はそのくらいかかるだろうなと思いましたが、チューブだらけの母は『絶対無理!』と言っていました。ICUで上向き固定のままほぼ1か月というのは意識が鮮明な患者には相当な苦痛だそうです。ましてや母は腰痛持ちで上向きで寝られない人。そんな人が精神を保っていられるか?私はそっちの方が心配でした。

何が不安かって、コロナ禍の入院ときたら本当に本人に会うことができない。ICUは仕方ないとしても、その後の一般病棟にも入ることができず、毎日10分程度のビデオ通話と、差し入れで守衛室に行った時に担当看護師さんと話ができる程度。ビデオ通話で多少元気なように見えても聞く限り本当にベッド上から少しも動いておらず、誰とも大して話している様子はない。意識が鮮明なだけに心配になりました。

せめて家族の誰か一人だけでも面会できたら、と何回も交渉し今後の治療方針を話し合うということで2回、10分程度母の側に行くことができました。家族の顔を見た時の母の表情は忘れられません。やっぱり、病院生活は辛いんだなと思いました。

母は重症心筋梗塞から一気に心不全となり、7月の血液検査の数値から『退院まであと3か月』と延長され絶望しました。

母は死ぬことが絶望なのではなく、死ねない恐怖、ここで一生生き続ける恐怖と闘っていました。入院してからずっと『もう管外してください。死んでもいいから家に帰りたい』と言っていました。それは患者のわがままかもしれませんが、でもこれ以上入院していても私は母が少しずつ回復して退院する予感がしませんでした。

こんなにずっと寝ていたらもう立てなくなっているだろうし、誰とも会話しなければ認知症になるかもしれないし、精神が崩壊するかもしれない、と思いました。腰が痛くて眠れないということで、後半は眠剤も飲んでいたため昼間ビデオ通話していてもなんだか虚ろな時が多かったのです。落ち込み具合からついには臨床心理士の投入も検討されており、そうすると精神安定剤を処方される。薬だけがどんどん増えて、母はどんどん廃人のようになっていく。私は、見ていられないと思いました。

病院にいれば死ぬことはない、と家族の誰かが言いました。

これは母が『もう死んでもいいから首の管を外して欲しい』と懇願した時のこと。7月の末です。私は、これが母が一番元気な状態で家に戻る最後のチャンスだと思いました。管は6本くらい繋がっていましたが最後に残ったのは2本。無理矢理次々に母の意思で抜いていった結果です。

ただ、最後の2本が抜けない限り退院はできないのです。強心剤の持続点滴というやつです。私はこれについても管に繋がれたまま在宅看護する方法を徹底的に調べていました。

色々と良心的な在宅医療のクリニックの方がアドバイスしてくださいましたが、そうこうしてる間に母は急遽退院することが決まりました。主治医の先生によると『もう本人が限界だということで、他のドクターと相談したところ8月2日全ての管を抜いて退院となります。早ければ帰り道、長くて6日もつかどうかです』と言われましたが、私は飛び上がるほど嬉しかったです。ただ、前述した通り家族の中には『病院にいれば生きていられるんだよ、退院したらもう終わってしまうかもしれないんだよ』という意見もありました。

病院にいれば母という形は残っているでしょう。ただ、その母は母なのでしょうか?

眠剤で虚ろな表情をして、誰とも会話せず、トイレだけ自分の力で…と申し訳なさそうに看護師さんを呼ぶ母が不憫でなりませんでした。これが母なのでしょうか?

だったら家に帰って来て、到着と同時に死んでもいいのではないか?住み慣れた家で、家族のいるところに戻って死ぬことは悲惨で不幸なことなのか?特に私が母と考えが近く、長女ということもあって全面的にバックアップして8月2日、病院へ迎えに行きました。

でも、もし病室にお見舞いに行けていたら状況は違っていたと思います。

たとえ15分でも毎日会いに行けたら、もっと話ができて励ますことができたら、違う選択肢があったと思います。でも、これからの時代は病院に入ったらそれで終わりかもしれない覚悟が必要になる。施設も同じ。そこに入ったらもう出てこれないし、会うこともできない可能性が高いのです。これはきっと生死観や、現実と向き合うチャンスかもしれません。

もう会えないかもしれない状態になった時の究極の選択。

母が生きていれさえすれば良いのか、母らしい最期を送らせてあげられるか、周りはこの2択だし、本人は、このまま病院で生き続けるか、退院して精一杯生きて死ぬかの2択。

決断しなければならない時がくるのです。

今までも永遠のテーマだったかもしれません。ただ、もう会えないかもしれないという状況にならなかっただけ。母は本来ならまだ入院しているところですが、現在自宅で過ごしています。医者の予想を裏切る生命力で、立って歩くこと、お買い物に行ったり、台所に立つこともできています。退院からまる2か月が過ぎ、誕生日も迎えることができました。

重症の心不全へと移行したため、決して元気いっぱいなわけではありません。人生のオマケに与えられた時間です。退院時に『もし自宅で急変があったら、もう助ける手段はないのでお看取りになりますよ』と言われました。実際、発作を何回も起こしましたが、救急車に乗ったら終わるということと、もう病院に行きたくないという母の思いがあって、苦しんでいる姿を見てもとても呼ぶことができないのです。

こんなスレスレの判断は家族、ましてや娘には辛すぎる。そう思い、在宅医療をお願いし、自宅で看取ることが可能になりました。
在宅医療だと酸素やニトロなど、急な時に対処できるグッズを処方してくれます。また、救急車を呼ばずに亡くなっても周りの私達が責任を追及されることはありません。最期まで家にいることができるし、薬漬けの治療ではなく緩和を目的としたケアを受けながら過ごすことができます。

最期をどうするか?元気な時に話し合っておくと良いですよ。何よりも本人の強い意思が必要になります。ちなみに、退院までずっと『明日にでも死ぬ可能性がある』と言われ続けた私達。それでも良いから帰ります、ありがとうございました、全員で言えるといいです。それくらいしないときっと帰って来れなかったと思います。

今は、退院させてくれた先生、病院の皆さま、現在診てくれている往診の先生、看護師さん、ケアマネさんに感謝の気持ちでいっぱいです。こうして生きてる母とまたくだらない雑談ができて、普通の日常を送れていることが私達にとって、母にとってかけがえのない幸せです。

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