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継ぐ

土砂降り雨が波打つスレートの屋根をつたって、たたきつけるように外のコンクリに流れ落ちている。跳ね返りの雨水のおかげで、つなぎの裾は出勤早々泥だらけになってしまった。

陰気な気分で自分の持ち場につく。大きめのため息をつく俺に脇目も振らず、親方はただ黙々と、固く黒ずんだ指で鋳型の製作に取り掛かっていた。一体何時に出勤したのだろうか。丸まった背中には、すでに羽のような汗染みが現れていた。羽があったとしても、どこにも飛んでいきやしなそうだ。親方の地べたをどこまでも歩いていくような地道さは、一生かかっても俺には真似できない。


「スケ」

急に名前を呼ばれてハッと我に帰る。寅之助だから、スケ。皆んなはトラと呼ぶ。親方はたまに変なこだわりがある。

「へい、なんすか」

「朝倉小学校んとこのメダル、おめぇ文字やってみっか」

文字というのは、メダル製造の中でも一番大事な工程だ。まず紙に図版を書き、型を作る。この型がメダルの出来栄えを大きく左右する。お客さんのを任せてもらえたのは初めてのことだ。

「頼んだ」

それは、俺にというよりは自分に言い聞かせるようなトーンだった。親方ももう74歳。篠山徽章の看板は、そろそろ俺が背負う準備をしなければならない。しかし寡黙な親方には、説明するとか教えるという能力と気力が絶望的に無い。背中で覚えろという男気ではなく、たぶん、単純に苦手なのだと思う。見て学ぶしかない。仕事を任せてもらえるのは嬉しい反面、中々大変である。


帰る前に、工場の隅の、型をしまっている木棚を漁ってみた。俺が初めて作ったもの、弟子入りする前に親方が作ったと思われるもの、先代のもの、無造作にいろんな型が放り込まれている。篠山徽章の歴史であり人々の誇りの歴史が詰まっていた。

ガサゴソやっているうち、棚の底に四角い錫の板を見つけた。「具」「宝」「座」の3文字が板を埋めつくしている。具宝座。劇団のメダルを作る時のものだろうか。いや、もしかしたら宝が最後に来るかもしれない。いずれにしても、散りばめられた文字からは正しい並びが推測できない。頭の中で3つの文字が入れ替わっては想像が膨らむ。


「具…座…宝…」


そこへ、身支度を済ませて帰ろうとする親方が後ろを通りがかった。


「親方、これなんすか」

板を眺めてじっと黙り込む親方。ふと顔を持ち上げ、天を仰ぎ見て、それから目をつぶった。

「思い出のヤツっすか…」

重たい声で聞くと、親方はゆっくりこう呟いた。


「全然思い出せん」

拍子抜けした。

「いや、全然、ということでもないんだが。なんの注文の文字だったかな。これは、まだワシがこの仕事をはじめたばかりの頃に作ったやつだ。親父が作ったのを見て、これならワシの方が上手くできると思った文字をこっそり自分なりに作ってみたりして。スズがもったいねえからって、板がいっぱいになるま押したんだっけね。でも、こうみると全然上手くねえな」

無口で温厚な親方にも、そんな反抗があったなんて。正直驚いた。でも、反抗が今の親方の血肉になっていることは間違いない。時を経て俺がこの反抗を発見し、そうとは知らずに無駄な推理をした時間が、なんだか無性に愛おしく感じられた。篠山徽章はこんな風に受け継がれて、続いて欲しい。そんな気持ちが込み上がった。

「俺も作ります」

「お前も偉くなったな」

そう言って親方は笑った。

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