意識から身体へアプローチする飯田先生稽古備忘録


飯田先生稽古メモ

友人達が口を揃えて、口では説明できないんだけど、とにかく良いと思うし、石井くんに合ってると思うからやってみてと言われた、飯田先生の稽古に参加しました。

噂に違わず面白すぎる取り組みだったので、備忘メモ投稿をしておきます。尚、飯田先生の稽古は、参加者に合わせ内容は毎回違うということで、私自身先生の言葉の真意を受け取れていないところも多くあるかもしれないという前提で、あくまで私の感じ受け取った稽古メモですということを許容ください。

古武術の先生らしいということだけ後で伺いましたが、行う身体の稽古自体は、私がなまくらで通っていた八光流の古武術道場で行っていたような、身体に余計な力をいれずに組んだ相手と繋がれると、スーッと相手を崩せるようになるということの稽古を繰り返すというようなものでした。

但しそのアプローチ方法がとても独特で、身体の使い方的なことは一切行わず、ひたすら、「意識」の部分にアプローチして身体を変えていくというところが、とても独特で凄すぎる内容でした。

身体をこう使ってというフィジカルなところの説明は殆どありません。

身体を捻って力を横にずらしてしまう人には「正面からその人のことを見て感じて真っ直ぐ行って」、出来ていた人がもう一段アレンジを加えてうまくいかなかったら「上手くやろうとする意識が働いているね」みたいな感じで、身体のあり方からその人の意識のあり方そのものをがしっと掴んで、直球投げ込むみたいな感じでした。

上手くやろう、ちゃんとやろうという一言でも、その捉えがその人の本質をついていて、例えば、「会社でこの人達あかんなあと思う人たちを思いっきり思い浮かべてみて」というと、身体がすーっと動いてしまったりとか、理屈をつけようと思えば、他人と自分を分離してしまうあり方をしている人には、その分離している他人と自分を一致させてみれば、本来の自分の力を発揮できるようになるとか、一つ一つ行なっているアドバイス的な意識のあり方のサポートに一見理の通りそうな説明を加えることはできるのですが、そんな超常識的なアドバイス(というと構造が違うと言われ、事実を見てコメントしているだけと言われるのですが)が、個々の人に併せて多種多様なのです。

私の場合の「ちゃんとやろう」というところについては、こんなセリフを言ってもらい、そしていちいちうわあその角度から来ますかあという感じでした。

『職場でちょっとふざけているというと思っているあり方自体が本質』

→それを聞いて、家が大変家が大変と思っていたけど、実は家では、子供達に言うこと聞かせるために、あれダメこれダメ、こうしろああしろと命令するばっかで、命令するなといつも言われているけど、遊びがなかったなあ!と気付かされる。

『凄くちゃんとやろうという意識が高い』

→小学校低学年で、わがまま放題で、クラス男子全員と喧嘩したよねという位にはヤンチャだったのですが、喧嘩のシーンで良く思い出すのが、シャーペンは学校で使っちゃいけないというあったかなかったか分からないような規則違反した奴と授業中に喧嘩みたいなものなのですが、ああ、そういう意識の反動でふざけて遊ぶみたいなものもあるのかなあと思わされ、何かというと、両親も規範意識ご高く、銀行員をしながら、夏祭りで、くじ引きを個人出店してお金を稼いだら、24時間テレビに寄付させられて納得いかなかったことを今でもこれもまた良く思い出し、寄付行為に、コンビニで小銭寄付という習慣以上の寄付を出すことにいつも、俺自身が俺自身に投資した方が世の中の為になるみたいな、超傲慢な自分と葛藤する自分がいたりするのですが、それも、規範意識の妙な高さが、そうでな自分と葛藤するのかみたいなことを、またぼそっと飯田先生が、「自分のことをあかんと思っているから、規範を守ろうとする意識が働く」みたいなことや、「正しい正しくないというのは、誰かの都合なだけ」みたいな言葉を散りばめてくれる中で、

『自分に甘く他人に厳しい』

→ああ、そこ凄く分かっちゃうんですね!さすがという感じでした^_^スマホをやるな!YouTubeのゲーム動画くだらんとか、ゲームなんかやらないと子供に言っておきながら、実は、定期的にゲームにどハマりしたり、廃人と呼ばれるプレイをしたこともある(しがち)だったり、ストイックに色々やっている側面を対外的には色々見せていながら、スイッチ入らないと何もやらないという、子供達が直面して見せてくれている諸所の側面は、自分のあり方の繁栄で、麻雀で遊び歩いていた父親が子供に厳しかったという父親のあり方の裏表の反映だったりするのかと、想念入り混じりで、自分の普段家族に隠して、規範を大切に真面目ぶろうとしている自分自身に直面させられる・・・

これら凄く刺さる言葉をコメントしてくれて、最後に、そういうアドバイスが個別の人ごとに出来るところが凄いんですけどどういう感覚なんでしょうか?と質問したら、そういう「アドバイス」という構造の中で生きているということだと言われたり、どうでしたか?と言われて、質問をしてくること自体が、そこで完結してしまうということになり、質問したことで完了してしまうので良くないと言われたり、一見、何かあるか聞いていて、質問するなというのは、私は、『質問魔』なのですが、いや確かに、質問をすることが目的になっていないか?、自問自答することが大切だよなと思わされ、更には、最年少参加の女の子が、ぼーっと聴いている感じのあり方を持って、「本当に考えるとかっていうのは、目に焦点が合っていたら出来ない、こうやってぼーっとしているくらいの状態が実は一番受け取って感じているということになっていたりする」と、うわあ、言葉と構造を「理解」しようとしている思考を見透かされたような発言で、「みる」と「みない」の間、感じるけど感じない、受け入れるけど反応しないで自由とか、禅問答のような言葉が並べられて、多くの人が本質を本当に理解して動かないといけない世相だという危機感からの「魂の講談会(っていうと言葉が違うと言われそうなのですが)」、理解と体感の向こう岸に誘ってくれようとする渾身の場にとても感化されました。

そんなこんなで、私の中では、まずは、家族との間の自分の振る舞いが、かなり演伎とこうあるべきという想念まみれだったなあということに気づかせてもらったということで、もっと遊び心が必要だ、根っこに大切なことを抱えている意識は持ってもいいけど、それもただの想念かもねとわきにおいておいて、しのごの言わずにふざけて一緒に身体で遊ぼう!と思うようにします。

と言いながら、受験生の長男が次男と家で、ノーバウンド卓球ではしゃいでいるのを見て、無理矢理、相撲をしながら勉強机に寄り切るというのが、遊びなのかどうかという反省はさておき、いい加減にしろやあという言葉だけで怒鳴るよりマシだろうと思いつつ、一緒になって卓球しながら大切なことを伝えられる父親になりたい(この後に及んで、まだ伝えたいと思っているのかという声が傍から聞こえる・・・)と思いつつ、あるもの全部いったん自分の中に受け入れてみる感覚でぼーっとしていこうと思います。

以下、その他の備忘メモです。

◼️正しい正しくないは

誰かの都合

それに振り回されないこと

◼️想念

自分の中の想念が、一体どこからきているか、みる必要がある

それに振り回されないこと

◼️納得できること

人は自分より下のものしか納得できない

納得できてしまうことであれば、それくらいのこと

納得できなくて良い

◼️頑張ろうとしてしまう

逸らそうとせずに真っ直ぐにみて、そのまま行ってみる

みることに執着しなくていい

◼️色々世間的に上手くやれるようになると

逆に自分の本質にスーッと入れなくなってしまったりする

◼️凄く受け入れられてしまう人は

分かってしまうので、凄く辛辣な言葉を使ってしまうことになったりもする

◼️身体は麻薬

おもうだけで色々できたというタイミングがあった

◼️世界

自分が作っている世界は何か

自分がどう働きかけているから世界はこうなのか

◼️みる

みるということの本質が分かっていない

知った構造で理解してみた気になる

それそのものを受け入れて、そういうものが一杯あって、そここら自ずと見えて来るものがあるはず

◼️反応しないのは

そらすのとは違う

まるのまま受け入れても反応しない

◼️感情は自分ではない

感情 好きも嫌いも一時的なもの 持続しない

◼️日本人

純粋に自分がどうという主張を日本人はしない

どこかで勝手に他人を自然におもんばかる思考が日本人は働く 同化を繰り返してきた民族

◼️瞬間で伝わっている

身体は組んだ時点で反応している

対話が瞬時に成立している

◼️分かることは

瞬時に分かる

余計なことを考える必要はない

あ、これできるかも、で、良い

備忘メモ、以上です。面白すぎました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?