どこでも魔女リティ

 時は昼時、所は、私立尾舞高校一年C組の教室内でのことだった。一人の可憐な少女が悲痛なうめきを漏らしていた。彼女の名は、下総一恵。明るく暢気、英語のテストの結果が酷くとも笑顔を絶やさぬ彼女が、今、絶望の淵にたたずむ悲劇のヒロインのような暗い顔をしてうつむいている。一体全体、何が彼女を変貌させたのか。その答えは、彼女の真っ正面にある。机の上に置かれた愛らしいピンクの弁当箱。その箱のふたを開けて出てきたのは絶望だった。
「いい加減、諦めて食べたら?」
 もぐもぐと自分の弁当を健やかに速やかに食べていた出羽睦美は、最後のおかずをしっかりと噛みしめて飲み込むと、親友に対して冷ややかな視線を向けた。冷ややかなその美貌と相まって、その視線はより鋭いものとなって一恵の心に突き刺さる。
「……だって、きらいなんだもん」
 今にも泣き出しそうな顔で、一恵は瞳を伏せた。肩は微かに震えている。
「そんな子どもみたいなこと言っていても、それは消えないよ」
 睦美はほっそりした指で一恵のピンクの弁当箱にみっしりと詰められたピーマンの肉詰めを指し示すと、一恵はきっと顔を上げ、
「お母さんみたいなこと言わないでよ。昨日の晩ご飯で残したら、今度は弁当のおかずになるなんて! あり得ないっ」
 拳を握って力説する。一恵はピーマンが嫌いだった。それはもう、大嫌いだった。体にいい? もちろん、そんなこと知っている。幼児時代から野菜は身体にいいよと聞かされて育ってきたのだ。しかし、好き嫌いがあるのは仕方がないではないか。全ての人を愛せぬように、どうしても愛を注げぬ食べ物があっても、それは自然なことだ。
「なんなら睦美にあげるよ、これ」
「私はもう自分の分は食べたよ。これ以上食べるのはカロリー摂取過多になる」
 どうしても食べる気はないのね?
 もちろん!
 無言のやり取りで一恵の固い意志を読みとると、睦美の瞳がきらりと光った。それはほんの一瞬の輝きだったが、目の当たりにした一恵の背に冷たいものが走った。
 まるでそうすることを初めから決まっていたかのように、睦美は制服のポケットに手を滑らせ、小さな包みを取り出すと、ささっとその包みの中の粉末を一恵の弁当箱に振りかける。その流れがあまりに自然で素早く行われた為に、一恵に為す術はなかった。
「さあ、これならどうかな?」
 まるで一恵を試すかのように睦美は瞳を細め、うっすらと笑う。
 なにをしでかしたのか問いただす声が一恵の口から出るより前に、ごくりと一恵の喉が鳴った。見るのも嫌だったはずの弁当箱の中身。それが、今や腹の虫を奏でるすばらしい芳香を放ち、そして、鮮やかな緑色が彼女の食欲中枢を直撃する。
 これで食べずにおられるものか。無意識に一恵は箸を取った。迷わずピーマンの肉詰めを口に運んだ。舌から脳天へ、美味という純粋な悦楽が突き抜けた。
 お・い・し・い。
 この世にこんな美味しいものが存在するとはという驚きと喜びの渦の中でぐるぐると踊りながら、一恵は弁当をあっと言う間に平らげた。
 空になった弁当箱を前に満足げに腹をさすっていた一恵は、その様子を暖かく見守る睦美の視線に気がつき、わざと不機嫌な声音を作り、問いただす。
「一体、何をしたのよ」
「ちょっとね、試作品の実験」
 軽い調子で答える睦美に、やっぱりねと一恵は首を振った。
「また、私を実験台にして」
 わざとらしくため息をついても睦美はしれっと受け流すだけだ。
「でも大成功だったんだから、いいじゃない」
 と。
「で、あの粉はなんなの?」
 なんとなく答えは分かっていたが、それでも問いたださずにはいられなかった。もちろん、一恵の予想通りの答えが返ってきた。
「嫌いなものが美味しく感じられる魔法の調味料」
 やっぱり、と一恵は大いに納得した。
 なにしろ睦美は魔法使い検定準二級の資格を持っているのだ。もっとも、そのことを知っているのはその筋の世界の人間と、一恵だけ。睦美の言葉を信用するならば、だが。
 それにしても、魔法の力というのは恐ろしい。あれだけ嫌いで嫌いで嫌い抜いたピーマンが極上至高の神の食べ物と化したとは、一恵にとって信じがたいことだった。あの青臭くて、苦くてえぐいピーマンが、美味しくてたまらないだなんて、そして、それが胃の中におとなしく収まっているなんて、本当にあり得ない。
 だが、それは事実なのだ。そのことを空っぽになった弁当箱が静かに、されど雄弁に主張している。
 これは素晴らしい薬だと賞賛せずにいられようか。そして、この素晴らしい薬を我がものにしたいと願わずにいられようか。これさえあれば、ピーマンの肉詰めも、チンジャオロースも、レバーもトマトもなすびもその他諸々のおぞましい食材も、もう怖くはない。もちろん、母親の小言も、次の日の弁当のおかずに怯える日々とはさようなら、なんて素晴らしき日々だろう。
 そういう訳で、まだ欲しいのならば学校が終わったら家へ寄らないかと睦美に誘われて、まったく迷うことなく、のこのこと一恵は出羽家へとついていってしまったのだった。
 出羽家はごく普通の住宅街にあるごく普通の一軒家である。睦美の父はごく普通のサラリーマンでただ今勤務中、母は優秀な魔法使いで、遠い外国へ派遣されてバリバリ働いているが、このことは伏せられている。なにも事情を知らないご近所では、夫と娘を置き去りにして好き勝手にしているだめな母親だと吹聴する者もいるが、
「お父さんも納得しているし、今のこの町の平和の百聞の一くらいには、お母さんは貢献していると思うわ」
 と睦美はさらりと受け流している。
 さて、そんな出羽家には秘密の開かずのドアがある。廊下の突き当たりにあるそれは、鳥のような紋章が刻まれている以外何の変哲もないドアに見えるが、実はそうではないことを一恵は知っている。なんと言っても開かずのドアなのだ。ドアノブを回そうとしてもびくともしないし、巨大ハンマーでぶち壊そうとしても、不思議な力で衝撃を跳ね返されるだけなのだ。
 だが、お経のような不思議な抑揚のついた呪文を睦美が唱えると、それに反応して紋章が光り、かちりと鍵が開く。
 ドアの向こう側にある部屋こそ、睦美の秘密が詰まっている魑魅魍魎の世界だった。棚に並んだガラス製の保存容器には両生類っぽいものやは虫類っぽいものや、その他ヌメヌメヌラヌラした得体の知れないものがずらりと並んでいる。大きな目玉の周りにバラのような花びらをはやした謎の生き物に思わず目を引かれ、一恵がまじまじと見つめると、その生き物の目玉がぎょろりと動き、しっかりと視線が合って慌てて一恵は目をそらす。そらした先には、大きな本棚があった。『悪用厳禁・呪詛論全集』、『暗殺大全集』、『乙女のためのレンアイ魔法応用編』と様々なタイトルが並んでおり、一口で魔法と言っても様々なジャンルが存在することがよく分かる。
 しかし、なによりも一恵が感心するのは、これだけの実験材料や本を、睦美がきちんと整理整頓し、どこに何があるのかしっかりと把握出来ているということだった。
 教科書を発掘するのに半日かかる一恵の部屋とは次元がが違う。
「はい。これこれ」
 一恵が本棚の前で『駆け出し魔女っ娘が東京に転生してベンチャー企業の経理を任された件』というタイトルとにらめっこしている間に、睦美は机の引き出しから小瓶を取り出した。
「今度の検定対策に作った試作品『嫌いなものが美味しく感じられる調味料』。一恵のおかげで良いデータが取れそうだわ」
「……やっぱり、私はただの実験台なのね」
 一恵はがっくりと肩を落とし、落胆するふりをする。だが、実際のところは実験台にされるのは最早なれっこだし、致命的に酷い目にあったこともない。そうでなかったら、とっくの昔に一恵は不審で悲惨極まる非業の死を遂げていたであろう。
 史上最年少の魔法使い検定第一級合格者になると豪語する睦美は、確かに才能のある魔法使い見習いに違いないと、一恵は信頼しているのだ。
 もちろん睦美も、その信頼を裏切ることのないよう、また、己の野望の為に常に切磋琢磨し続けている。
「なにを、今更。これって作るのに手間はかかるは材料費もかかるは、結構大変なんだから。いらないならいらないで構わないけれど?」
 冗談めかして、そうは言うものの、一恵が拒絶するはずがないと確信している。
「ちょうだいちょうだい! 任せて、私、ほかにも嫌いなものがたっくさんあるから、ちゃんと効くかどうかしっかりモニター出来るって!」
「そんな胸を張って言うことでもないと思うけど……」
 やや呆れ顔になりながらも、睦美はその小瓶を一恵に手渡した。小さな瓶をうやうやしく両手で包み込んで受け取ると、一恵は深々と頭を下げた。
「材料は使い切っちゃったから、これで全部。だから、大切に使ってよ? まあ、ちょっと振りかけるだけでいいから、すぐには使いきれないと思うけど」
 睦美の言葉に一恵は大丈夫大丈夫とぶんぶん首を振った。
 そして、魔法の部屋を後にする時、一恵は再びあの目玉花びらの化け物と目があってしまう。うるうると瞳を潤ませるそいつに何か切実に訴えられているような気がして、和美の背中にぞわぞわと寒気が走る。
 あれがこの薬の材料だったらイヤだなあ、とそう思うが、「材料はすべて使いきった」という睦美の言葉を思い出して安堵のため息をついた。

 こうして、モニターという名目で手に入れた魔法の調味料は、まさに魔法の調味料としか言いようのない効果を見事に発揮した。
「お母さん、今日はセロリのサラダにして!」
「今日はホルモンの日ね。レバーレバー」
「ピーマン安売りのチラシ出てるよ。チンジャオロースチンジャオロース、らららららー」
「ナスのグラタン、最高っ。この食感がたまらないのよね」
「人参、人参、人参グラッセ。このほんのりした甘みが癖になるっ」
 偏食三昧のわがまま娘に何が起こったのか、一恵の母親は盛大に首をひねり、危うく首を捻挫しかけてしまうほどの大変貌ぶりだった。しかし、どんなものでも実に美味しそうにもりもりと平らげてくれる娘の幸せそうな笑顔を前にして、そんな不信感は吹っ飛んでしまう。
 いただきます、とお行儀よく手を合わせるようになったのも、どういう心境の変化か分からぬが、実に良いことだ。実は、この手を合わせるという動作に紛れて一恵は魔法の調味料をそっと料理に振りかけていたのだが。
「本当、なんでも美味しそうに食べてくれるからうれしくなっちゃうわね」
 何も知らない一恵の母は大いに腕を振い、そして、ドーピングという手段を取りつつも、一恵もその母の愛の手料理を大いに胃の中に収めていった。
「ああ、食べた、食べた」
 スッカラカンの弁当箱を前に、一恵は満面の笑みを浮かべた。豆ご飯とセロリ・人参・トマト入りグリーンサラダの山盛り弁当をあっという間に平らげて、今では満腹がもたらす幸福感に浸っている。
「よく効いているみたいね」
 山菜ご飯、ほうれん草のおひたし、焼き魚の弁当をゆっくりと少しずつ口に運んでいた睦美がいったん箸の動きを止めて、しみじみと一恵の顔を見つめた。
「うん。スゴいわ、これ。豆ご飯の豆なんて最悪だと思っていたのが信じられない」
「そうね。効き目がスゴすぎて、ちょっと私、怖くなってきたくらいよ」
 ハイテンションな一恵と対照的に、どこか影のある睦美の表情を浮かべる。それにつられて、一恵も心持ち、眉を寄せて、こそっとつぶやいた。
「もしかして、あの薬に副作用があるとか? ……太りすぎるとか。もう、薬は今日のお昼で全部使い切っちゃったんだけど」
「いや、それは副作用じゃなくて単に食べ過ぎなだけ。もっとも、それが最大の問題だということがよく分かったわ。通常以上の食欲を引き出してしまうということがね」
 感情を感じさせない平坦な声で睦美は問題の核心をずばりと突き、一恵の心にぐさりと衝撃を与えた。
 あの魔法の調味料を渡した一ヶ月前と比較して、明らかに一恵の頬はつやつやてかてか光輝き、輪郭は丸くなっている。
「だだだ、大丈夫よ。栄養はちゃんと取っているってことだからっ」
 わざとらしく元気よく立ち上がった弾みで、一恵のスカートのホックが取れかかる。とうとうやってしまったと一恵の頭が力なく垂れた。
 一恵も気がついてはいたのだ。鏡で見る己の顔の変貌ぶりが恐ろしく、ここ数日は体重計に乗る気力すら沸かない。だが、一週間後には、恐怖のイベントが待ち受けているのだ。
 健康診断。その、体重測定。その四文字熟語を思い浮かべるだけで、一恵の胃袋がきゅうと締め付けられる。
「やっぱり太ってる?」
 恐る恐る問いかけると、睦美は容赦なく
「太ってきたわね」
 とずばり指摘した。
「好き嫌いなく食べるのは良いことだけど、栄養バランスとカロリー摂取量には気をつけること。これが美味しいご飯の神髄よ」
 とは言え、一恵の変貌にこちらも責任が皆無とは言えないし、と睦美は付け加えた。あの調味料の問題点もはっきり分かったことだしね、とも。
「今日、家に寄る?」
 もちろん、一恵はふっくらした頬を紅潮させて大きくうなずいた。

 例の秘密の魔法の部屋で、睦美は机の上に置いてしっかり準備していたものを一恵に手渡した。
「やっぱりダイエットするには、これが一番健康的よ」
 それはランニング用のシューズだった。分厚いゴムの靴底に、真っ白い靴紐、いかにも走りやすそうな機能美を感じさせるシルエット。
「ランニング?」
 まさか、いやいやこれは、そんなはずはないだろう、そう願いつつ、一恵は口を開いた。
 彼女の願いも空しく睦美は真剣な顔でうなずいた。
「カロリーを取ったら、消費しないとね」
 正論だった。しかし、正論だからと言ってすぐに受け止められるわけがない。一恵はピーマンも嫌いだったが、身体を思い切り動かして運動することも嫌いだった。体育の成績はいつも悲惨だ。マラソン大会という言葉を聞くだけで憂鬱な冬将軍が心の中で荒れ狂うほど大嫌いなのに、シューズをはいて、ひたすら走りまくれということか?
「でも、もちろんただのランニングシューズじゃないんだよね」
 魔法使いお手製シューズがただのシューズのわけがないじゃないかと一恵は気を取り直して、改めて問う。
 もちろん、決まっているじゃないという睦美の言葉に、一気に地獄から天国へ急上昇、一恵はシューズ片手に小躍りした。
 その様子を不審げに見守りながら睦美は、
「一日決められたカロリーを消費するまで走り続ける魔法がかかっているから、イヤでも走り続けることができるわ。しかも、毎日自動的に靴が足に装着される機能付き。これなら、どんな人間でも痩せられること間違い無しよ」
 と太鼓判を押してくれた。が、この発言にまたもや一恵のテンションは急降下、顔を青ざめさせて、
「え、強制的に走らされるだけ? 一歩歩くごとに千キロカロリー消費するとか、そういうのじゃないの?」
 と睦美に詰め寄った。鬼気迫る表情を真っ正面にしながら顔色一つ変えることなく睦美は答える。
「一歩歩いてそんなにカロリー消費したら死んじゃうじゃない」
「そうなの? でも、そんな強制的に走らせるだけだなんて、まるで、えーと」
 一恵の頭に浮かび上がりかかっているのは、ある一つの童話だった。
「ほら『白雪姫』だっけ。あれの本当のラストって、継母が焼けただれた魔法の靴を履かされて、死ぬまで踊り狂わせられるってやつじゃなかった?」
「ああ、それはタイマー機能がついていなかった不良品だったからよ。これはちゃんとタイマーがついている黒魔術協会お墨付き、メイドインジャパン製だから大丈夫」
 すらりとした指で睦美は、ランニングシューズの踵部分につけられたマークを指し示した。そこには黒いコウモリマークの真ん中に『魔』の字がしっかりプリントされている。それは、魔法使いの端くれである睦美にとってはJISマーク程度の信頼感はあるようだったが、一般人にとっては不吉を表す紋章にしか見えない。
「とにかく、走るのは疲れるよ、もっと楽なのが良いよー」
 死ぬまで走らされるのではないかという恐怖感に襲われて、一恵はランニングシューズを睦美に突っ返す。
「仕方ないなあ」
 そうは言いながらも、その反応をあらかじめ予想していたかのように、睦美は引き出しから迷うことなく、青い小瓶を取り出し、一恵の手のひらの上に載せた。
「はい。これがやせ薬」
「こんな便利なものがあるならさっさと出してよっ」
 言葉遣いこそ荒いが、今度はありがたく受け取ると、中身がたぷんと揺れる感覚が手のひらに伝わってくる。どうやら液体状の薬のようだ。一恵は、これを離してなるものかと、きゅうううっと瓶を握りしめながら、一恵は睦美に尋ねた。
「それとも副作用があるとか?」
「それは大丈夫。食後にスプーン一杯分服用すれば一週間で元通りになるはずよ。これも試作品だけど」
「それってやっぱり私は実験台のモニターなんじゃない」
「ランニングシューズの方だったらモニターじゃないわよ。通常価格十万円はする純正品、裏の世界では定番のダイエット用品なんだから、それ」
 首をゆるゆると振りため息混じりで睦美は、机の上に置いたランニングシューズを見た。こっちの方を使って欲しいという切なる願いを込めた憂いを帯びた視線だったが、一恵は軽やかに無視を決め込んだ。
 痩せるならば、楽をしたい。
 これは太古の昔からの人間の自然な欲求だ。彼女はそれに素直に従ったに過ぎない。
 一週間後には元通り。これなら、恐怖の健康診断には間に合うはずだ。
 一恵は青い小瓶をハンカチに包み込み、大切に通学鞄の中にしまい込んで出羽家を後にした。
 かつて、一恵に対して悲しそうな視線を向けた不気味な目玉花びらの瓶が無くなっていることなど、浮かれた一恵はまったく気がついていなかった。
 こうして、その後、青い小瓶の中の苦くてまずい薬をスプーン一杯服用するという生活が一週間ほど続いた。
「やった!」
 そこには、かつてのプロポーションを取り戻した一恵の姿があった。顔のラインはすっきりシャープに、スカートのホックも元通り、体重計の針が指し示す数字も元通り。下着のゴムの部分が多少緩くなってしまったが、これは仕方がない。
 一恵の変わりようときたら、まさにダイエット食品の使用前使用後の広告の如しであった。
「薬の量もばっちりちょうどだったみたいね。もしかしたら足りないかもって心配していたんだけど」
 自ら調合した薬の効果を目の当たりにし、睦美も悪い気はしないのか、うっすらと満足げな笑みを浮かべて微笑んでいる。
「うん。昨日の夜で全部無くなったけど、ぜんぜん問題ないよ」
 バンザイ、と一恵は元気よく両手を上げた。
 もっとも、その後の歯科検診で小さな虫歯が見つかったのだが、体重という問題と比べれば、まだささやかな問題に過ぎなかった。
 これでもう心配ごとは無くなったと、晴れ晴れした顔で一恵は睦美とともに帰途についていた。
「あーあ。心配ごとが無くなったらお腹空いちゃった。なにか食べてかない?」
 そう言って、ファーストフードの店に寄り、一恵は山盛りのフライドポテトとコーラを頼み、もりもりと平らげていった。これは前からの大好物であり、あの魔法の調味料に頼る必要はまるでない。
「よく食べるわね」
 睦美はコーヒー一杯だけ頼み、一恵の気持ちのいい食べっぷりに半ば呆れ半ば感心したような声を上げた。
「だって、やっぱり食べること。好きなんだもの」
 やせ薬は無くなり、魔法の調味料も無くなった。だが、今の彼女は最早偏食だらけの不健康不良児ではない。薬の力など借りなくても、もう彼女は何でも食べられるようになっていた。今日の晩ご飯は、レバニラ炒めのはずだが、これはまったく問題なし。
「あれって好き嫌い克服する効果があるんだね。私、かんどーしちゃったよ」
 瞳をきらきらさせた尊敬のまなざしを向けられて、睦美の頬がほんのりと赤く染まった。あの調味料にそんな効果があるとは、想定外のことだった。
「私もびっくりだわ。実験につきあってくれてありがとう」
 睦美の言葉を聞いているのかいないのか、一恵は瞳を細めて天井を見上げ、
「ああー、幸せ」
 心の奥底から口にする。あらゆる悩み事から解放されて、体重どころか心まで軽くなったようだった。
「ほんと、睦美は才能あるよ。今度の試験、合格するよ!」
「そうね。ありがとう」
 存外の賛美の言葉にうれしく思いながらも、睦美の心の中に不安が渦巻き始めていた。なにもかもが、うまくいきすぎているからこそ感じる不安であろうか? そのもやもやした苦い不安を飲み下すように、コーヒーの最後の一口を彼女は飲み下した。
 程なくして、その予感ははっきりとした形を持って的中することになる。

 放課後の教室はとても静かで、たった二人きりしかいなかった。雨が降り始め、電気をつけない教室の中は薄暗い。
「うわーん」
 泣きついてきた一恵の制服のスカートのホックはみしみしと悲鳴を上げていた。そして、その顔は欠けていない月のようだった。
「やっぱり食べ過ぎだと思うのよ」
 きっぱりと睦美は言い切った。
「だって、何を食べても美味しいんだもの」
「好き嫌いが無くなったのは良いことだと思うんだけどね」
 しかし、何事にも適量というものがある。それを無視すればどうなるかという良き見本がここにあった。
 一恵はすがるような目つきで睦美を見据えた。その視線を睦美は真っ正面から受け止めた。ゆっくりと、一恵の赤い唇が開くのを睦美は見つめていた。彼女が何と言うのか、睦美にはおおよそ見当がついていた。
「ねえ。あのやせ薬、ちょうだい」
「だめ」
 間髪入れず、睦美は一恵の哀願を切り捨てた。みるみるうちに潤む一恵の瞳には驚愕と悲しみと混乱が映し出されていた。しかし、睦美は目をそらさない。
「だめなのよ」
 もう一度繰り返した。
「なんで、もう在庫切れなの?」
 睦美は首を横に振る。そうではないのだと。
「だったら、なんで?」
「あれは、魔法の調味料によって増えた脂肪分に反応して燃焼作用をもたらすものだからよ。一恵は言ったわよね。もう、あの調味料が無くなってもなんでも美味しく食べられちゃうって」
 ああ、と一恵は大きく口を開き、そしてガクリとうなだれた。
「前に体重が元に戻ったのは、魔法の調味料で食べた分が減っただけなのよ。でも、今、増えた分は違う……そうでしょ」
 まるで裁かれる罪人のように一恵は身じろぎもせず、ただ睦美の言葉を聞いていた。自分で自分を抱きしめる。柔らかな二の腕、柔らかな背中の肉の感覚が、どこまでも悲しかった。
 そんな彼女の頭を睦美は優しく撫でた。恐る恐る顎を上げた一恵の目の前には、かつて睦美が一恵に提供しようとしたあのコウモリ印のランニングシューズがあった。
「睦美……」
「一恵、一週間で痩せるハードコースにする? それとも初心者用三ヶ月コース?」
 カッと閃光が教室内に走り、やや間をおいて轟音が鳴り響いた。大きな雨粒が激しく窓を叩きつける。
 覚悟を決めて一恵は、宣言した。

 三十分後。
 激しく降りしきる雨の中、全力で校庭を走り回る一恵と、傘を差しながら優しく校庭で見守る睦美の姿があった。