アレント『人間の条件』覚書き part 3
ハンナ・アレントの『人間の条件』、ようやく読了。言葉の洪水で、同じ話の繰り返しも多く読むのに苦労したが何とか読み終えることができた。
これまでの覚書きはこちらから。
アレントが高い価値を置く、古代ギリシアの公的空間、ポリスの在り方が、本書を読んでいて最も刺激されたところでもあった。
複数の多様な人間がそこにいることがポリスの条件である。そのような公的空間において、人びとは活動と言論によって自らをあらわす。活動と言動が他者に見られることによって、はじめて人間はその存在を保証される。そこにリアリティが生まれる。独居において人は存在することはできない。その際に他者とは、私と対等な立場にあり、私と異なるものでなければならない。主人にとっての奴隷は私の一部ではあっても、他者ではない。
私の活動と言論が物語となり、人びとに共有されることで私という存在は永続性を獲得する。私的空間において私は生命を維持するために労働するが、労働はその時その時で消費されてしまうものであり、後世には残らない。現代とは、公的空間の永続性より瞬間の生命が、そして活動よりも労働が賛美される時代である。
アレントの論考は、現代社会を考える上で、様々な示唆に富んでいる。おそらくアレントの言う公的空間を、私も含め、多くの人が求めている。ただ、私的空間と公的空間の境目がなくなった現代において、現実世界の中で公的空間を求めるのには無理がある。職場は公的空間ではなく社会であり、そこでは生活のため、という必然のもと、上司の指示に従い労働することを余儀なくされる。自由な活動や言論によって自らを表現し、それを対等な立場にある他者に見てもらうことで自分の存在を確信する、などは決してできない。
だからこそ、SNSやメタバースといった仮想空間に多くの人がひかれるのではないか。顔を見せる必要のない、本名をさらす必要のない場所、生活の臭いの染みついた私的空間から離れたところにあるもう一つの世界の中で、自分の活動や言論によって自分のことを自由に表現する、あるいは他者の活動を見る。そこに、もう一人の私の存在がリアリティを持って立ち現れる。
ちなみに、ChatGPTに「ハンナ・アレントの言う公共空間とメタバースの関係について論じて」と入れたら、こんな回答が返ってきた。
ただ、新しい公的空間の登場、というセリフはインターネット黎明期にすでに何度も叫ばれた。しかしそれは、エコーチェンバーやフィルターバブルなどにより、極度に偏った傾向を持つ無数の小集団を生み出しただけだった。信用することはできないが、ChatGPTに聞いてみると古代ギリシアのアテネの市民の数は3万から4万人。現代のネット民の人口とは桁が違う。一定の人数を超えたときに公的空間は成立しうるのか、ということもまた、考えていくべき問題なのかもしれない。
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