創作についてのエッセイ

 エッセイ嫌いの書いたエッセイ(のようなもの)を公開してみました。

 小学校低学年のときにはもうエッセイが嫌いだった。今まで国語の問題文以外でエッセイなんて読んだことはない(たぶん)。母がゴミ捨て場から拾ってきたエッセイ本を読んだのがわたしとエッセイとの間に深い溝を落とす原因だったような気がするが、もしかしたら単純に他人の話に興味がなかっただけかもしれない。誰のエッセイだったか覚えているが、ただの批判になってしまうので題名は伏せる。とにかく他人の手垢と唾液のついた話というのはそそられない。

 といふものを書いてみむとす。

 なぜかというと母に言われたからというのもあるが、とにかく暇だからである。暇すぎてUndertaleを始めたがパピルスのところのイヌ夫婦に勝てなくて進めないし、ゼルダの伝説ブレスオブザワイルドはタコみたいなやつに焼き払われて進めない。ちなみにわたしはネタバレ気にしない派なのでUndertaleのことをだいたい知っている。ゲームをしているといつも「次を読むために苦役をこなしたくない! 本でくれ!」と叫びたくなる。ゲームという娯楽媒体に極めて適性のないクズなのであるが、なぜかスーパーダンガンロンパ2の狛枝凪斗とFE風花雪月のディミトリを溺愛してモンスター他人をしている。わたしは概念人外をこよなく愛するからだ。閑話休題。

 暇である。体調がめちゃくちゃに悪い以外、完全に暇と言っていい。入院中って本当になにもすることがない。繭の中にいたサンダルフォンみたいに肉体を維持しているだけだ。とはいえ体調が悪いのでごはんもあんまり食べられない。しかし言ってしまってはなんだがごはんもそんなに……その……まあ……そういうことだ。
 病院のごはんはまずいかというとそうとも言えない。「味が薄い」と言っている方を見かけたがむしろ味は濃いのではないかと思った。ただ……淡白なのだ。食事を「美味しく感じさせよう」という努力は並々ならぬものを感じるが、料理の本質である「飯を旨くしよう」という欲求からは限りなく遠いところにある食事だと思った。もっとも飯を旨くするものとはどう足掻いても死亡と糖だから、病院食では節制されるのも当然というところである。まあわたしは買い食いしちゃったんだけどね。閑話休題。

 暇だと言ったが体調は悪い。なにもすることがないとはいえ、むろん入院している以上は為さねばならないことがある。そう、病気を治すことだ。むしろそれ以外にここにいる意味があるかというとない。まったくないのである。つまりわたしは可能な限り良くなりたいのだが、どうやってなればいいのか皆目見当もつかず、暇を持て余している哀れな患者ということになる。哀れとはいえ医師も看護師もみな優しい方々ばかりで自分は恵まれていると感じる。
 実際、わたしの生涯は恵まれている。
 父母は若干アレな親ではあったが飯を食わせてくれたし、苛めの被害者になりまくったものの学校生活はなんとか送れてしまった(本当は挫折したかったが、誰もそれを許してはくれなかった。今思い出してもムカつく)。勉強は死ぬ気でやればなんとかなったし勉強はしておくと良い。勉強をしておくと勉強をしたという自信がついて、のちのち勉強程度では解決できない様々なことに対する無力感をより一層深く味わうことができるからだ。絶望万歳。死に至る病が絶望なら生命は絶望しているエネルギー体といっても過言ではないだろう(※過言です)。わたしと愚弟はいずれも「人間はその与えられた才覚と覚悟で死に物狂いで戦うべきだ」派に所属しているが、愚弟がその上で人間の勝利を尊ぶいわゆる「人間讃歌」属であるのに対してわたしは人間ごときが運命に勝てるわけがなくない? という「人間惨禍」属である。人間、思い上がるな。運命に敗北してひざまづいてその影に泣きながら口付けをしろ。閑話休題。

 さて、そんなわたしが生きていくために欠かせなかったひとつの大切な特性がある。「創作性」だ。
 その創作性に対して、今回わたしは最悪な啓示を受けるに至った。すなわち、「創作活動はみずから創作するものを助く」。言い換えれば「出ない神作より出る駄作」。

 知っていたよねたぶん人間みんなこれを知っていると思います。わたしも知っていました。その上でなぜこれを語らねばならないのかなあ……と思ったかと言うと、暇だったからだ。ちなみに、暇と言っても体調は悪いし、なんか副作用ですごく全身がヤバい。従ってなんか、なんでこんなわかりきったことを書いているのか、わたしにもわかりません。どんな状況でも暇は発生するし、どんなに忙しくても暇は潰さないといけないのだ。そんなことあるんですねえ。

 エッセイこれで合っている? もう全然わからない。フォロワーの書くnoteは大抵面白くて才能を感じるので、この塵芥のようなnote(になる予定のもの)がどのような軽さでTLという大河を流れていくのかと思うと涙がちょちょ切れますね。ちなみにここでの閑話休題はふたつあって、ひとつは「口語に〜して『い』る」の補足は必要か、もうひとつは「〜を彷彿とさせる」に「彷彿」のもとの意味がひとつもないことにキレそう、というものだ。この閑話休題の多さこそが結局は「創作性」に至る「節操のなさ」に繋がるのだと思っているので、とくに推敲せずこのnote(?)を読んでいる諸兄らの苦悩を偲ぶことにします。アーヌン。

 創作である。

 世の中には創作を「せずに済む」人間が大半を占めると聞いても信じ難い程度には、小さい頃から創作を必要としていた。幼稚園の教室の隅に、小学校の椅子の上に、中学校の引き出し、高校の保健室のベッド、大学の講義ノートに彼らはいつまでもいる。どこまでも追いかけてくる。少なくともぶっ倒れて病院に搬送されても付いてくることだけは確かだ。

 たとえ生存に「創作」が必要だったとしても、必ずしも自分で創作する必要はない。他人の創作物という世界にアパートや一軒家を借りられるならそれで充分幸せになれるのだ。わたしはそれを望んでさえいた。誰かの夢を見て幸せになりたかった。
 しかし病気になって一時的に空想たちの声が聞こえなくなったとき、わたしの絶望は信じ難いほどであった。あの忌々しい空耳から解放されたとき、もうわたしはそれ以外にはなにも残っていなかったのだ。

 こんなに理不尽なことがあるだろうか?

 生きるために身につけざるを得なかった特性のために、いつの間にかそれ以外の特性を詰めておく箱をすべて潰されていたのだ。あの空想たちがわたしに微笑んで暢気にちょうちょでも飛ばし続けていてくれないとわたしは死ぬのだ。
 空想の重さに慣れ切っていた。もう地上の重力に戻れなかった。あまりに「かるい」。内側から爆発して内臓すべて吹き散らかして死ぬ以外、もう手立てはなかった。
 あんまりではないか。
 わたしは創作するために生まれてきたというのか? それが人間の世界ではほとんど埃のようにふわふわと流れてなんの価値のないものだというのに? 
 正解はYESである。
 わたしは生きるために創作をしてしまった。
 その瞬間、いかな無価値で、無意味で、無駄であろうとも、わたしの生存性はそれで決定してしまった。わたしはそういう運命を「もう既に選んでいる」。できるのは後悔だけだ。
 人間は自分の運命を決められない。「人間惨禍」属のわたしの持論が奇しくも裏付けられた瞬間だった。

 だから創作をした。

 病院のベッドの上で、泣きながらシナリオを書いたし(遊びに来てね!)、ゲームシステムを作ったし、リクエストを募集してSSを書いたりした。そうしないと「創作」という彼らはさっさと青空をキュッと脇に遣ってなんか曇天を広げ出し、舐め腐った態度でテントを回収してわたしをひとり雨も降らない野原に置いていくのである。おかしいよなあ? わたしの創作ならわたしのために夜空に戦艦を飛ばして地上を火の海にするべきだよな(※ハウルの動く城を途中まで見ました)
 しないのである。命令すればしてくれるけど。
 そうして考えて、飯を食い、摘み食いをして、コロナで外出禁止だから病棟内を際限なく歩き回り、オエっとなって、おれには創作なんてできねえと泣き始め、苛々して、シャワーなんかを浴びて、考えて考えてそこでようやく「作品」はわたしの空想から削り出されて実体を持つ。そして書いていくうちに正解に近づいていく。ぞっとしない。書かなければ永劫に正解に辿り着かないものをわたしは内側に飼っているのだ。今、ひとつ一次創作というものをしてみようと、温めているアイデアがある。それはわたしが書き始めない限り永遠に「間違って」いて、でも、わたしに白い首を絞められて殺されるのを逃げ出さずにじっと待っているのだと思うと少しいじらしい。おまえはおれが殺してやるからね。大好きだよ。

 創作活動、辛すぎんか? 創作するという行為のあとに出でる創作性、明らかに順序があべこべで怖い。でも創作しないと死ぬので、創作します。わたしの今年の目標は「幸せになる」です。応援してください。

 幸せになる難易度高すぎるよなあ!?

 世界に穏やかなるうつくしい滅びあれ。ラーメン。

220126 月

 追伸:はじめてnoteを使ってみたが、画像選べるんですね。かわいいですね……ありがとうございます……お借り(?)します……!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?