舞城王太郎『熊の場所』

「よい」と「わるい」……舞城王太郎の文学空間では、ふたつの明確な区別が存在する。善悪ではない。生命にとって、よいものであるか、わるいものであるかが問題なのだ。
舞城王太郎にとって「よい」とは、ストレートであること、すなわち、生命のアンタンシテ(強度)の直接性を指す。生命のまっすぐな表現……時に荒々しい暴力として表現されることもあるこの生命の表現は、常に肯定されるものとして措定されている。
一方、舞城王太郎にとって「わるい」とは、鬱屈すること、観念的な倒錯の世界に迷い込んでしまうことを指す。暴力や猥雑さに満ちた現実との葛藤を恐れて逃避し、それがトラウマになってしまうケース(「熊の場所」)、自分のヴァルネラビリティー(負性)を克服できずに、ルサンチマン(怨み)から弱者のいじめに走るケース(「バット男」)、さらには人間の不条理な死の重みに耐え切れず、特権的な死であるかのように装飾を施す変態ミステリマニアのケース(「ピコーン!」)。これらが舞城王太郎の敵である。これらは、生命の力を捻じ込め、消耗させる。これらの必然的帰結は、灰色の世界である。
『熊の場所』に収められた三つの短編は、それぞれ独立した話だが、順を追って読んでいくと主題の上で発展が認められる。まず、サイコホラーテイストの入った冒険小説「熊の場所」で、”自分の苦手な領域をつくると一生つきまとうので、逃げるな”というメッセージが与えられる。続いて「バット男」で、この世界に全員一致で一人を殺す(ルネ・ジラール)というサクリフィスの原理が浸透していることが暴露されているが、「熊の場所」のメッセージを受け取った読者なら、当然逃げることなく、真実を直視することだろう。
そして、「ピコーン!」である。ここでは、あけすけな卑猥な単語が頻出するが、たじろいではいけない。文学において性的表現が見られるとき、読者の精神を武装解除させ、心理的外科手術に入ることが多々ある。この作品がそうである。注意深く読んでいくと、この作品の主題は、意外なことに身体ではなく、ハートの問題にあることがわかる。この作品の話者は、自身の快楽について語っているのではなく、自分によって相手が悦楽を得るのが嬉しいということを語っているのだ。ここで描かれているのは、利他であり、施しであり、愛することのエッセンスなのである。
舞城は、この地点から本格ミステリという制度とは何かを斬り返す。例えば、新本格の理論的支柱というべき笠井潔は『探偵小説論』において、探偵小説は大量死の時代に抗して、フィクションの世界で固有の人間の死を復権させる試みであり、そこで死者は犯人による巧緻を極めた犯行計画という第一の光輪と、それを解明する探偵による精緻な推理による第二の光輪によって選ばれた者となるという主旨の議論をしている。しかしながら、「ピコーン!」で描かれた愛するものを失った女性の立場からすれば、そんな行為は死者の冒涜であり、それを正当化するような論理を展開するのは、ただの変態でしかない。本格ミステリ風に殺害しておきながら、犯人は被害者の家族に、これは死者を二重の光輪で選ばれた者にするためだと釈明できるのかと、舞城は詰め寄る。「ピコーン!」は、このような同時代のミステリに対する批評的な視点があって書かれた作品であると考える。

初出 mixiレビュー 2006年02月19日 16:03

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