邪宗門~宗教という魔 竹本健治『闇に用いる力学[赤気篇]』~ヴィクトール・フランクルのホムンクルスムス批判まで

(初出 匣の中の匣)2003/04/22(Tue) 20:54
『闇に用いる力学[赤気篇]』のあとがきで、竹本健治氏はオウム事件について「あの事件の決着のかたちは現実にあってはならないものだという想い」があったと語り、「あの事件によって歪められてしまった現実のかたちを、小説のなかであるべきかたちにもどしてやればいい」と書いている。
ここで、作者が「あまりに私的な心情なのでここではつまびらかにしない」としている心情の解明をしたいとは思わない。ただ、自分にとっても「あの事件の決着のかたちは現実にあってはならないものだという想い」があったということと、それが竹本氏が抱いた心情と共通項があるかどうかは、かっこでくくり問題とはしないと言っておこう。
あの事件の終結の仕方についていえば、
(1)主犯格のMは、逮捕を目前に、床下の空洞の中に隠れるというぶざまなことをし、逮捕後も裁判の席で、ほとんど黙秘を通し、事件について自分で説明することがなかった。
(2)オウム・ウォッチャーの観点は、時として、あれは金銭を巻き上げるために、宗教を装った大掛かりな詐欺であるという見方に傾きがちであった。この見方は、彼らの悪の水準を見くびっていると思う。彼らの犯罪には、金銭目的や、自分たちの組織の保身という動機があったが、少なくとも自分たちの創り上げた教義に、自らコントロールされていたのである。
オウムは宗教であるが、邪教である。魔術に白魔術と黒魔術があるように、オウムは人々を悪に駆り立てる邪教である、というのが私の観点である。
しかも、この宗教は、私と同じ栄養を吸い上げて、巨大になったのである。それは『虹の階梯』であり、コムレ・サーガであり、『帝都物語』であり、過剰-蕩尽理論であり、『オカルト』であり…私と同じものを摂取し、巨大な悪の華を咲かせたのである。無論、これは壮大な誤読であり、作者たちは責任をとる必要はない。しかし、作者も読者たる私も、彼らとの明快な理論的切断を示さないと先に進めない気がするのである。
彼らはチベット密教カギュ派の聖人の名前を「ホーリーネーム」にしていたが、カギュ派の聖者の伝承には次のようなものがある。
仏教徒は殺生は禁じられており、魚を殺すことも良くないとされている。ところが、ぼろぎれを着た乞食が魚を火であぶって、食べている。これを問いただすと、魚の命を奪い、よりよい生に転生させているという。実は、この人物はカギュ派の聖者であり、このような芸当は高度なテクニックである…という伝承である。
これを仏教の原理主義者が読んだ場合、禁じられていたはずの殺生が、聖なる行為に反転する…これが人間に適用した場合……。
このような論理の反転と、観念の倒錯の匂いを、この事件に感ずるのである。
勿論、これは伝承の持つ本来のメッセージを、反転させている。
また、仏教は自己の超克という特色があるが、これは自分から為さなければ意味がない。自分からの超越なのである。
ところが、彼らはPSIという奇妙なヘッドギアをつけ、ドラッグで外部からのコントロールを無制限に受ける状態に持っていった。また、教祖の血を摂取するなどの行為も見られた。これらは、外部からのデータ注入であり、仏教の原則の正反対である。これは、教祖のクローンと化する企てと見ることができる。事実、彼らのカテキスムには、アストラル体やエーテル体といった神智学用語とともに、クローンという言葉も登場するのである。
彼らの教養は、私に似ている。彼らは私の隣人なのである。ところが、ことごとく、その知を私とは逆の方向に向けて再編成してしまったのである。
2003/04/24(Thu) 07:34
まず、地下鉄サリン事件が起こる前と、後では決定的に情報量が違うということを申し上げておきます。
ただ、あの事件を初めて聞いたとき、直ちに私が「犯人はオウムだ。」と叫んだのは事実です。
では、事件前になにを知りえることができたかといいますと、まずオウム真理教の出版物であり、週刊誌の記事(そのなかには、オウムの異臭騒ぎの記事も含まれていました。)でした。
まず、出版物に関して言えば、『生死を超える』とか『イニシエーション』とかが一般書店にも流通していました。これらのタイトルは、例えば笠井さんの本を読んで<絶対>という言葉に惹かれた者であればひきつけられるものであると思います。
ただ、それらには教祖が苦痛に満ちた顔で無理にうさぎ跳びをしている写真がついており、本を手に取るのも敬遠したくなるほど、はなはだ醜悪な印象を持ったわけです。
このことは何を意味しているでしょうか。
この写真は、教祖が美男子ではない以外に、次のような問題がありました。第一に教祖の存在自体が、自己目的化していることです。(こういった個人崇拝を、私は好みません。)第二に、超能力自体を目的にし、それを宣伝に使っているということです。
新興宗教のだめなところは、ほとんどの団体で、教祖の個人崇拝が行われ、教祖を自己目的化していることです。
また、超能力を宣伝に使うことは、人間の自由を奪うことであり、最低の方法だということです。
2003/04/24(Thu) 21:29
精神医学者ヴィクトール・フランクルは、本質主義をホムンクルスムス(人造人間合成術)として批判しており、例えばナチスによるユダヤ人虐殺を、「人間は血と土(遺伝と環境)に決定される存在にすぎない」という見方が根底にあると考えます。フランクルは、人間にはさまざまな側面がありますが、そういった断片をすべてと考え、それだけの存在と看做すことを拒否します。いいかえれば、人間を外部からみて、何々にすぎない、という見方を拒否するということです。
フランクルは、人間を何々にすぎないという本質主義に抗して、人間は自らなろうとするものになるとして、何々からの存在という言い方をします。人間は自己の内部から自らをつくりあげてゆく存在だというのです。
さらに、カール・ヤスパースの考え方も導入しておきましょう。こうした自己超越は、限界状況に直面することから始まるということです。ヤスバースは、人間がさまざまな問題に直面することで、成長するものだとしました。自己中心主義的な人も、その考えで限界にぶつかると、それ以上の価値があることを悟るというわけです。
こうした考え方からすれば、オウム真理教(現アレフ)の思考は、全く逆のベクトルを向いているといえます。
以前の投稿で、オウム真理教の特質を、外部からデータを注入することにあるといいました。
彼らは教祖を<最終解脱者>として、人間の完成型と看做し、その遺伝情報(血)や、思考パルスを信者に注入しようとします。これは、ホムンクリスムスの究極の形です。そして、彼らはLSDなどの製造も行い、ドラッグで、データ注入の障壁となる判断能力を完全に停止させようとします。そのため、彼らのサティアン群には、膨大なおむつが積み上げられていました。
実は、仏教には<最終解脱者>というものはないのです。彼らは、この世界ではない<彼方>に向かうわけですが、今度は<彼方>を実体化して、それに釘付けになっているわけです。
(あたかも、多くの人々がこの世界を実体化して、これに釘付けになっているように。)これは、空性の正しい理解ではないのです。
これは仏教には限りませんが、オカルティズムにおいても<深淵>を超えることが、大きな分岐点となり、場合によっては、より大きな迷妄(マーヤー)に陥ることがあるということです。正しい道は、エゴを超えた慈愛=愛の純粋贈与の世界に導きますが、よこしまな道は、より肥大化したエゴへと導きます。その最たるものが、自分は<最終解脱者>で、他人の生殺与奪も許されているというおごりでしょう。その自己中心主義的な考えが、一般に受け入れられないとき、それは人類全体への憎悪に変わるのです。
また、彼らのサティアンが、現実の国家の悪しき縮小版であったことも考えるべきです。つまり、彼らが造り上げたのは、抑圧的国家装置のコピーであり、革命的戦争機械ではないのです。悪夢のような小型の国家装置は、徹底的に人間の自由を簒奪し、管理するためのものです。
彼らが農業を忌み嫌ったことは、示唆的です。つまり、彼らの世界観のシステムには、無から有を生産する<純粋贈与>の概念がないのです。したがって、彼らの思考のシステムは、必然的に動かなくなるようになっていたということです。
はたして、これらの説明で杉澤様の質問に充分答えたことになるのか疑問ですが、関心領域は重なる部分は多くても、いくつかの自分の公準からして、彼らの考えに同調することはありえないと思います。

記事を読んでいただき、誠にありがとうございます。読者様からの反応が、書く事の励みになります。