小森健太朗『グルジェフの残影』

 本書は、ロシアの神秘思想家ビョートル・デミアノヴィチ・ウスペンスキーとゲオルギー・イワノヴィチ・グルジェフの小説形式による評伝である。
 この本は、「本格ミステリ・マスターズ」の一冊として『Gの残影』として刊行され、文春文庫に収録されるにあたって『グルジェフの残影』と改題された。ウスペンスキーによるグルジェフ思想の解説書『奇蹟を求めて』で、グルジェフはGと表記されていた。文庫版『グルジェフの残影』でも、グルジェフはGと表記されているが、これは作者の観点がウスペンスキー寄りであることと、本書で示されたグルジェフ像が、多角的総合的な観点から為されたものではなく、あるまで一解釈であることを示唆しているように思われる。
 本書の語り手は、オスロフというウスペンスキー思想の信望者である。彼は古くからのウスペンスキーの高次元思想の傾倒者であり、突如ロシアに現れた神秘家Gの考えに、ウスペンスキーが同調し、Gの弟子のようになってゆくことに不信感を持っており、やや批判的な観点から「Gとは何者か」を追及してゆくことになる。
 つまり、本書の前半は「グルジェフとは何者か」ということが主題になっており、グルジェフについて何も知らない、しかも、批判精神を失わない観点からのアプローチがなされる。オスロフからの視点を導入したことで、本書はウスペンスキーとグルジェフへの入門書としての機能も持つに至った。
 読者は、本書からウスペンスキーがGと出会う前に書いた『ターシャム・オルガヌム』の四次元思想、グルジェフの第四の道・三の法則・七の法則・エニアグラム、人間は<機械>であり、為すことができないという思想、神聖舞踏や<ストップ>エクササイズなどの思想のエッセンスを知ることができるだろう。
 本書のテーマは、ウスペンスキー的な意味での「循環」である。比較のためにチベット密教を取り上げると、チベットでは人間の死後、こころそのものは不滅で、49日間のバルドの彷徨を経て、次の生への転生を遂げる。ウスペンスキーの場合は、ピタゴラスの意味に近く、ひとつの生が終わると、次に再度同じ生の出発点に戻り、全く同じ条件で行き直す、これを無限に繰り返すという。本書では、まず冒頭でオスロフのエピソードとして「循環」が取り上げられ、仮に後悔から同じ生を行き直したとしても、容易に間違いから抜け出せるものではないことが示され、さらに本書全体が幕を下ろす頃、ひとつの「循環」の終わりが、次の「循環」の始まりであることが示される。
 私が本書を読むのは、これで2度目である。一度目は単行本で、二度目は文庫本で、というわけである。図らずも『Gの残影』という「循環」を通過した後で、『グルジェフの残影』という新たな生を生きたということになる。その結果、一度目の読書で見えなかったものが見えてくるようになった。二度目の「循環」においては、同じことの反復であってはならないのであり、僅かながらも差異を生み出してゆかねばならない。この場合、差異とは「循環」からの逸脱であり、同じ罠に嵌らないことである。
 一度目の読書は、「本格ミステリ・マスターズ」ということを強く意識して読んでいたので、2/3過ぎても殺人が起きないことを不思議に思い、「これは歴史ものとして終わるのか」と思いかけたところで、唐突に殺人が起きたので、吃驚してしまった。そして、作者は神秘学ネタを書くことに夢中になっていたが、途中で「本格ミステリ・マスターズ」の一冊として刊行することを、突如思い出したのではないかなどと、愚かしい邪推をしてしまったのである。
 しかし、二度目の読書を終えた今、そんなことはないということが判る。まず、前半のテーマは「Gとは何者か」であり、そのミステリアスな思想と生涯が探求される。後半になると「ウスペンスキーはなぜGのもとを離れたのか」に、問題設定が移っている。そして、この後半の問いを説く意味で、あの時点で作者は殺人を描く必要があったのである。ヒントは、エニアグラムである。後半の事件は、エニアグラムによる神秘思想応用の解決と、合理主義的解説が行われている。しかし、このエニアグラムによって、なぜ真犯人が浮かび上がるのかといえば、このエニアグラムが、この小説の設計図であるからに他ならないからである。
 作者は「ウスペンスキーはなぜGのもとを離れたのか」というプロブレマティックに対し、帝政ロシアとボルシェヴィキとGのグループによるせめぎあいが背景にあったと考える。殺人は、この矛盾の顕在化という性格を持っていたのである。時間進行を追ってゆけば、ラスプーチンの死や三月革命と、これらが<ショック>として介在し、それらの果てにGの狙いがあったと推定されることになる。これらの構図から、作者は大胆な歴史解釈を企てるのである。
 読者は、本書によってロシア革命期における革命思想と神秘学思想の隠された結びつきに接近し、震撼することになるだろう。

初出 mixiレビュー 2006年07月13日 15:42

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