生活と幻想

どうも1週間振りです。只野御宅です。突然ですが俺は漫画のジャンルに対してこれと言った好みがあるかと言われると百合としか答えられません。百合は世界を救う。まぁその話はまた別の機会。

逆に嫌いな物と聞かれた時に真っ先に浮かぶのは何を隠そう「エッセイ漫画」が一番の苦手です。自分でエッセイモドキのクソ駄文書いてて、何を言いだすんだコイツと思われるかもしれませんが俺はエッセイが嫌いなのでは無くエッセイと云う物を漫画で表現されるのが苦手と言った方がこれは正しいのかも知れません。エッセイ並べ過ぎてゲシュタルト崩壊起こしそうですが続けますね。

何故嫌いなのか、という文を書くのが非常に退屈であるのは承知の上ですが個人の意見として、俺は随筆と漫画という2つの物は相容れないと思います。漫画が「幻想」を書く物であるのに対して随筆は「生活」を書く物であるからです。勿論、ここに表現の用途を一つに制限するのは稚拙でもある事は否定出来ませんがはっきり言ってこれは揺るぎない事実だと思います。故にこれら2つは相容れない。またこれは、俺が漫画を読む理由が「現実から離れる」という物である事にも原因があると思います。然し証明したい事柄があくまで俺個人の好き嫌いであるから、構わないものだと考えておきますね。後は単純に、俺が正面切って自己主張する人間が嫌いとかそういう下らない事からエッセイ漫画が嫌いなんですけど。まぁそこは人の自由として見放して下さい。

それでもこの随筆漫画というのはやっぱり上手い人は上手い。何が上手いかと言うと、読ませ方が芸達者なんですね。漫画の中に自分を登場させるのだから語り口が本当に引き込まれるし、自分の感情を武器に演出させるのが一番の強みなんじゃないかと。書いてる人の多くは普通じゃ体験出来ない事をしてきた方達であるからただ現実を書くだけで、漫画の「幻想」に近づける。美味しい、とは絶対に言わないですが、非常に上手い事だと思います。さてこの随筆漫画がどうして今増えているのか。口火を切ったのは明らかにSNS、特にTwitterだと貴方も容易に想像できる事でしょう。昨今ではTwitterが「生活」に見事結び付いて雁字搦めになっており、この手の漫画はSNSの住民にとっては素晴らしい養分となるわけです。  何時にも増して口が悪いのはAmazarashiを聴いてるからです。許して。

「生活」というのは、所謂日常を指していますが一般的な日常と言われるのとも少し違う。   俺が好む「幻想」とは、多くの人が芸術の特徴として認識出来る特異点ですが「生活」というのは市民の日常に則し過ぎており、認識出来ない特異点の1つと考えています。「生活」というのは例えば道端にゴミが落ちてて悲しい、   (不謹慎ですが)隣の子が夜な夜な悪い事をされるだとか、「日常に則した感情」と言うと分かりが良い事に今気がつきました(クソ筆者の鑑)。具体的に説明するのも中々難しい物ですが、感情が付いて回る出来事が芸術で表現される物だと捉えて、俺はそれを「生活」と「幻想」といった具合に分けて芸術を考えているわけです。勿論「生活」は芸術的表現として充分成り立つものであるし、それを音楽で表現された物というのは本当に俺が大好きな物の1つです。泥臭いのが性に合ってる。では何故、漫画で表現されるとこんなに居心地が悪いのか。 その理由は、漫画で「生活」を表現されると個人の、等身大の感情がどうしても作品に憑いて回るからだと俺は思っています。エッセイというのは「生活」に対する作者の感情だとか、そういった物がこれでもかというくらい盛り込まれている様に感じてしまい、  他人の作品に自分の感想が嫌でも出てきてしまう俺にとって随筆漫画は非常に居心地が悪いという結果に至るわけです。残念な事に。これまた個人的な原因ですが、日常が酷い俺にとって他人の毒の様なエッセイを更に漫画で強化されて見せつけられると、色々限界を迎えてしまうという事もあると思います。  俺が幼稚な証拠ですね。何というかやっぱりエッセイは漫画で表現して欲しくない。然し非常に勝手な意見であるので、作者の方々は俺の事など気にせず堂々と描いて下さい。色々纏まらずに申し訳ない。


というわけで今回はエッセイ漫画について書いてみました。過去4回のうちでも一番のクソ駄文になってしまいました。まぁプロフで宣言しているのでこれから直す気も無いですが。案が纏まらずに書き始めるという書き手として非常に致命的な事をしてる時点でアウトなわけですが。然しこれでも読んで頂けてる様で何よりです。これからも程々に書いていきたいと思います。有難う御座いました。



只野御宅


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