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反出生主義的な考えをしてしまう日々

 自分として、楽しく人生を過ごしていきたい。人の生きている意味などそんな大きなことなんて考えずに、、と思っているがつい考えてしまうこと

生まれる子供の事について考えると

子供は親(生んだ人たち)の承認欲求、自己肯定感や夫婦間の関係の潤滑油的な役割のためなど使われる存在であるのではないかと私は思ってしまう。

家族機能不全とかで調べてみれば、潤滑油的な働きが分かるだろう。
道化師的な関わりや調整役的な関わりである。

少子高齢化の社会で年金についての問題(得ることができる年金額が世代が進むにつれ減額されるしかない現状)は解決していない。そして、国債は年々止まることを知らずに増え続けている。国として問題を先延ばしにしているように思えてしまうのだが、大丈夫なのだろうか。

テレビの発言から

「この子はペットではなく家族の一員なんです」とテレビで聞くたびに「では、家族(子供)=ペット」も成り立つのか?成り立つのか。と思う。

子どもをブログとか、演出とか、話題とかで出すとテレビ露出とか増えるし、話題性が出て仕事が増えたり、育児を押し出すとイメージ戦略ができる。そんな現状が少なからず存在している。

「出産おめでとう」と見ると微妙な気持ち。
この世の中に生まれてくること自体があまり歓迎できない。生きている自体大変じゃないかと考えてしまう。そんなに喜べない。
漫画でも創作キャラたちが仲良くなって、そこまでは楽しく読んでいるけれど、「子供をつくろう」という話をキャラクターたちがし始めると急に冷める(萎える)。

自分の考えの問題点

 何を持って問題にするのか、、、という話になるが、「その」考え方を持っていると生きづらさを感じやすいのではと思った。「その」とは困難に当たらないことが幸せであるという考えかたである。

困難に直面しないこと、生きていてそんなことに出会わないこと自体ほぼ不可能。出会わないようにすることは非常にストレスであり、難しく、精神的に自分で追い込んでしまう。

困難を回避することを目標とするのではなく、困難を乗り越えた先の充実感などに対して価値を置くような考え方をする方が精神安定上よいと考えた。

困難を回避することを目的とすると極論を言ってしまえば、この世に生まれてこないことこそ全てのリスクから回避できているという事になってしまい、自分の命を肯定できず、ただいたずらにつらく、死へと向かう。

下の記事は自分で書いた記事だが、回避型の考えであり、こちらにも反出生主義的な考え(生まれてくる意味とは)について書いている。


愛着スタイルに、安定型、不安定型、回避型というものもある。
気になる人は調べてみると良い。それぞれの型に特徴的な考え方や対処方法があるのだが、私は回避型が一番近いのかも知れない。

なぜ困難に遭遇しないことが良いと考えてしまうのか

 自問自答した。なぜこのような考え方、価値観なのだろうか、と。

今まで、自分は失敗を恐れていたのだと。それは失敗できない環境にいたから、失敗するような機会も奪われていた。それに加えて、そこまで不器用でもなかったため、周りに合わせれば失敗しない。直接的なモノではなく、間接的な、雰囲気的なモノであったが、失敗を許されない環境だったのだ。もっというと、敷かれたレールの上を歩き続けるということをずっとしていたためだったからだ。

非常に散文的で、日記である。

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