「哲学屋」という表現についての若干の考察
「哲学屋」という表現を時折耳にする。この言葉を聞くたび、えもいわれぬ不快感というか、嫌悪感がこみ上げてくる。しかしながら、これまで「哲学屋」という表現にまつわるこれらの感情について考えを巡らすことはほとんどなかった。そういうわけで、ここで少しこの感情について考えてみようと思う。
まず私が思うのは、「哲学屋」ではなく「哲学者」という表現のほうが一般的ではないか?ということだ。試しにUbersuggestで検索してみると、
さもありなん、「哲学者」という言い方のほうが一般的そうだ。ということは「哲学屋」を自称する人間は、敢えて「哲学屋」の屋号を背負っているのだろうか。そうだとしてもなぜわざわざそんなひと手間をかけるのか、私には全く理解不能である。そして私は「哲学屋」を自称する人間にインタビューやアンケートを行ってその精神性を追究したいというわけではない。そんなことをしたところで、私が取り組みたい問題について納得のいく回答が得られるとは思えないからである。ここでの問題は、なぜ私がこの表現に違和感を抱くのか、である。どうやら私の感じるこの違和感の原因は、単に「哲学屋」という表現が耳慣れないというだけにあるのではなさそうなのである。もっと言葉の根幹に関わるものであるように思えてならないのである。比較として哲学ではなく科学について考えてみよう。例えば、教科書でおなじみの二重らせん構造を発見した「ワトソンとクリック」の片割れはこのように言っている。
科学についてはこれでも全く差し支えないだろう。「科学者」が科学を推し進めようが「科学屋」がそうしようが、かれに恋人がいようがいまいが、科学は日進月歩で発展するだろう。ここでの「科学屋」というのはつまり、科学者には科学者でない時間があってもよいということだ。私はワトソンのこの主張にも「科学屋」にも違和も不愉快も何ら感じない。「科学者」でも「科学屋」でも、科学をやる権利(ちなみに私は「権利」という言葉も嫌いだ)は等しく与えられている。となると問題はやはり哲学であることに関わってきそうだ。そんな風に考えていたある日、このような言葉に出会う。
さすがクサカベクレス!痒い所に手が届く!といったかんじである。ちなみにこの本はめちゃ面白いのでおすすめである。
先ほど「哲学屋を名乗る奴の気が知れない」と言ったが、思うに、奴らはむしろ自分が何をしているのかをよくわかっているのではないだろうか。何をしているのがよくわかっているのか。哲学をしていないことにである。だから「哲学屋」の屋号を名乗り、あくまでもその暖簾をかけたりおろしたりできるお店屋さんとしての態度を表明しているのである。実際のところ奴らは振り切って「ソフィスト」を名乗るほどの気概も持ち合わせない半端者である(さらにそのことによって、結果的にソフィストの名誉も貶すことになっている)。「哲学屋」という表現は謙遜(それが心からの謙虚によるものであったとしても)に見せかけた免罪符に他ならないのである。自分自身が哲学でないということの。そして謙虚なのはろくでなしだけである。たとえクサカベクレスの言うように近代に哲学者といえるような人物がもういないとしても、だからといって「哲学屋」と堂々と名乗ることが問題ナシなのかといえば、私はそうだとは思わない。むしろ、哲学者がいなくなったからこそ、我々は哲学者になろうとしなければいけないのではないだろうか。逆上がりできることが今となっては当たり前でも、かつては「逆上がりできるようになりたい!」と思って何度も練習したはずだ。そうして気づけば自然とできるようになっている。あとになって振り返れば、そこには経験に変化が起こっていたというだけのことである。
もう哲学者がどこにもいないとしても、哲学者になりたがってもいいのではないだろうか。私にとっては、もうこの世には哲学者がないからといって哲学屋ばかりになるよりは、哲学者を名乗り哲学者を目指しながらも、ろくでもないクソ野郎であらざるをえないような奴らがいる世界のほうが好きになれそうだ。哲学を夢見て目指す前に「哲学屋」といって開き直るのは、なんだか少しもったいないし、寂しいかんじがする。くだらねえ謙遜なんてするよりも、みっともない姿を晒しながら手を動かし頭を働かせて、哲学者を名乗ればいいのに。そう思うのは私だけだろうか。
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