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母の教え№9  〇遠 足  〇学芸会

〇 遠  足 

 遠足は、小・中学校時代の楽しい行事のひとつだった。今でも母の作る巻き寿司の弁当は、懐かしい思い出だ。特に、卵焼き・干瓢・ごぼう・ソボロ入りの『巻き寿司』は、遠足と運動会の時しか食べられなかった。

 最近は、年中、スーパーか寿司店にでも行けば食べることの出来る巻き寿司だが、かんぴょうとソボロの入った巻き寿司は、めったにない。特に、赤いソボロ入りのものは、最近、あまり見かけなくなった。
 平常日は、寝過ごして何度も起こされるのに、遠足の日は、不思議と朝早くから目が覚めてゴソゴソと起きだしてしまい、毎回、母から怒られてしまう。
『遠足の日だけ早くから起きてウロウロすると、近所の人にめんどしい(恥ずかしい)けん、まだ寝とけや!』

 何時も、大声で〝朝寝を起こす怒鳴り声が、近所中に聞こえておるのに″ 遠足の日だけ早く起きて走り回るのは恥ずかしいと言うことである。
 私としては理由があり、弁当の『巻き寿司』が出来ているかどうかが気がかりで、どうしても早くから目が覚めしまうのである。
 ソボロは、母に頼まれて隣の店で買って来たし、かんぴょうは、昨夜、甘辛く炊いてあるのを“つまみ食いをして”確認している……。
 でも、昨日は、夕方からお客さんが多く、十一時ごろトイレに起きた時、まだ、店の電気が点いていた。怒られて仕方が無いので布団には入ったが、もう眠ってなんかいられない。
 母も心得たもので『もう、弁当はできたよ。起きて味見するかや。外には出んとけや』と笑いながら言ってくれた。
 まな板の上の巻き寿司の切れ端には、確かに、卵焼き・干瓢・ごぼう・ソボロなどが入っていた。巻き寿司の端尻尾ばかりだが、やっぱり母の懐かしい味がこめられている。
「一体、母は何時寝ているのだろう」と思いながらも、気持ちは、もう遠足の現地に馳せていた。

 この巻き寿司の弁当は、どんなに忙しい時でも朝には、必ず、出来ており、私たち兄弟三人の忘れられない〝お袋の味〟に定着すると共に、母親の子供に対する愛情の現われとして心の奥底に残っている。


〇 学 芸 会  

 何年から始まって、何年ごろまで続いたかは確かではないが、私が小学校に入学(昭和二十年)した頃、小・中学校合同の学芸会が盛大に開催されていた。戦後は、特に、村に娯楽がなかったせいか、青年団も演芸会を開催していた。

 村には、私の住む集落と2.5㎞くらい離れた集落の二つに劇場があった。毎年、正月の二日、三日に、二つの劇場で、小・中学校合同の学芸会が開催され、旧正月の一日、二日には青年団が、やはり二つの劇場で、演芸会を開催することが恒例となっていた。両方とも、開催日が公平になるように、今年、先の日にやれば、来年は次の日にやるという、交互に開催されることが暗黙の了解となっていたようだった。

 また、両方の行事は、村をあげての娯楽であり、家族ぐるみで観覧するので、二階席を含め、一千人ほど入る劇場に立ち見ができる程の大盛況であった。各家庭からは、”御華”として金一封が寄贈され、その金額を朱と墨で書いた半紙が、花道の白い壁にベタベタと張り出され、見るからに村を挙げてのイベントという格好を呈していた。

 学校も随分と力を入れていたのか、学年ごとに、全生徒による合唱のほか、クラス代表による踊りと演劇が開催された。
 開催時間も、午前九時から、午後五時過ぎまでびっしり詰まっており、丸一日係りの大きな行事となっていた。踊りや劇に選抜された生徒は、放課後一ヶ月くらいかけて、劇や歌の合唱の練習をしていた。
 中には、『鉢の木』とか『勧進帳』と言うような時代物やシェクスピアのような外国の歌劇に取り組んだりする熱心な先生もおり、玄人の劇団顔負けの芝居が出来上がっていた。衣装類も、和紙で作った着物やかずらに、ダンボールで作った鎧や兜など、学校が総力を挙げて演出等に力を入れていた。
 また、一人でも多くの父兄に観ていただくため、十二月三十日に総練習を開催して全生徒に見せ、当日は、客席への生徒の立ち入りを禁止していた。
 当時は、音響設備が整ってなかったので、日頃、勉強ができなくても、地声が大きく、劇場の隅々にまで響く声の生徒が、劇などの台詞の多い役に抜擢されていた。

 毎年、各学年の中で、自然に合唱組、踊り組、演劇組と、各生徒の特質により、振り分けられていたように思う。
 日頃、おとなしい生徒は、毎年、台詞の全くない、立ち木や道端の石や、村人で通行するだけの役に指名されていたが、みんな演劇組に入っただけで満足し、全員それぞれの配役をいきいきとこなしていた。

 私たち兄弟三人は、それぞれに地声が大きかったので、演劇組に分類されていたのか、毎学年、劇に出演する常連となっていた。
 また、毎学年、劇に出る生徒は、次第に舞台なれして、時々、咄嗟にアドリブを利かしたりして、先生を驚かすことも多かった。

 長兄の場合には、無言劇で主役の小僧に抜擢され、木魚を叩きながら舞台を走り回っている間に、1m下の客席に転落したが、すぐに、舞台に飛び上がって、芝居を続けたというエピソードが残っている。
 次兄の場合も、『ラマンチャの男』でドンキホーテになり、部下のサンチョと二人で馬に跨り、槍を片手に花道を颯爽と出てきて、台詞を交わしながら、長い花道をとおり抜け、舞台の下手にさしかかった時……、
『次郎ちゃん、兜…‥、 兜を忘れているよ!』と担当の先生が、舞台の袖から、必死に叫んでおられるのが聞こえてきたそうだ。
 次兄は、おもむろに後ろを振り向いて、『サンチョ、兜を忘れた、取ってまいれ!』と命令したら……、
 サンチョ役のA君も心得たもので、『はは!』と言って馬から降り、花道を下がって行き…、花道を小走りに戻ってきて、『お待たせしました』とドンキホーテに兜を差し出すと……、ドンキホーテは、『ご苦労!』と言って受け取り、サンチョが、馬に跨るのを待ってから、舞台の中央まで進み、本来の筋書きに戻って事なきを得ました。

 このことは、この劇の練習に立ち会っていた者しか気づかず、観客は、兜を忘れるのも演出の一部かと思っていたそうだ。このように、相手役のサンチョも二人組で白い布を被って馬になっている生徒も、毎年の演劇組の仲間で、粋統合しているからこそできる芸当だったと思います。

 学芸会は、毎年、母たちも楽しみにしており、その日は、朝から仕事も休んで、最後まで観覧していた。劇場が、私の家のすぐ裏だったので、私は、
毎年、先生に分からないように、朝早くこっそりと客席に潜り込んで座布団を敷き、祖母と伯母と母の三人分の席を確保していた。

 この毎年の学芸会は、楽しい思い出ばかりで、私は、よほど熱心に取り組んでいたのか、今でも自分の出演した劇の、台詞や劇中の歌などをハッキリと覚えている。
 母には、『少々、勉強ができなくても、好きなことを一生懸命に努力しておれば、将来、何かの役に立つものだ…』と教えられており、この学芸会にも関心があり、どんなに忙しくても、必ず、観に来てくれていた。


 これまで、いろいろな場面で〝隠し芸″などを要求される機会があったが、どんな時でも恥ずかしいと思わず堂々と披露できたのも、“母の教え”のお陰だったと思っている。

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