見出し画像

母の教え№10  運 動 会

〇 運 動 会 

 運動会・学芸会・遠足は、小、中学校時代の一番楽しい出来事だった。

 中でも運動会(小、中学校合同)は、どんなに忙しい日でも、母は、私たち兄弟が競技に出る時間帯には、必ず、観にきていた。
 前日に、プログラムを渡すと、私たちが出る競技に、赤鉛筆で印を付け、時間を計算していたので、必ず、観に来てくれると信じていたが、母の顔を見るまでは、落ちつかなっかた。

 自分の出番が近づくのに、母の姿が見当たらないので、ドキドキした思いで待っていたことが、昨日のことのように思い出されてくる。母は、私たちのこの気持ちを察していたのか、学校に到着するとすぐに、一番先に見つけた子供に、他の兄弟にも来たことを知らせるように指示していた。特に、何時もの弁当を持ってきたことも、忘れずに付け加えていた。

 弁当は、卵焼き・干瓢・ごぼう・ソボロ入りの巻き寿司で、遠足と運動会の時しか食べられない、私たち兄弟の一番の楽しみだった。
 母が観に来たらきたで、今度は、何処で昼食を食べるかどうかが気にかかり、競技そこのけで、このことばかり考えていた。昼食の場所は、年長の者が決めることになっており、私は、何時も、兄達からの連絡を待つだけだったが、その場所が、他の家族と重なった時のことを考えて、木陰の良さそうな所を無意識に捜していた。

 兄達は、その辺のことも心得たもので、他の家族と重なるようなへまは 一度もしなかった。
 運動会のメインイベントである、かけっこの成績は、長兄は、毎学年、八人中四位か五位で賞品をもらうことはほとんどなかったが、障害物競走と借物競争がある年には、必ず、三位以内にもぐりこんでいた。
 次兄は、かけっこが苦手で、障害物競走と借物競争がある学年のときでも、何時も最後か、その前を走るのが精一杯であった。高学年から中学生になると、友達と結託して、遅いもの同士がゆっくり走るので……、
『遅いのは、生まれつきだから仕方がないが、一生懸命に走らんのは許せん。五体満足に育てたかいがない。ずるい考え方に、友達を巻き込むな!』
と何時も母から叱られていた。

 私は小柄だったので、毎学年、八人から十人の組で、前列から一組か二組目に走り、順位もぎりぎり三位か四位に入っていた。一年生から三年生までは、三位以内にすべり込むのは確実だったが、四年生になると村境の分校から二十人余りが本校に合併し、小柄で私より早い子が加わったので、この順位が狂ってしまった。
 三位と四位では、賞品をもらえるかどうかの大きな違いがあったので、その後は、毎回、必死に走っていた。
 母は、『〝勝負は時の氏神〟負けてもいいから、一生懸命走ったかどうかが大切だ!』と順位には関係なく褒めてくれたので、三位に入れないときも、気持ちが少し楽だった。 同級生は、百人余りの二組だったが、走る場合は、合同で前から小さい順に走るので、中学校を卒業するまでは、いつも同じメンバーで競争していた。私は、小柄で機敏な方だったので、障害物競走には自信があった。

 このように兄弟は、それぞれ三者三様に特徴があったが、何よりの共通した楽しみは、親子四人で食べる昼食の時間だった。その後、兄達がそれぞれに卒業していったが、運動会での昼食は、同じように続いた。

 私が高校生になった三年間も、母は、同じ巻き寿司の弁当を持って運動会を観に来てくれた。私は、高校生になってからも、小、中学校の時と同じように、ワクワクする気持ちで母の来るのを心待ちにし、楽しい昼食の時間を過ごすことができた。
 高校では、メインイベントの競技に千五百m競走があった。高校生になるとほとんどの生徒が、担当の先生がいくら注意しても、暗黙の了解でゆっくりゆっくり走っていた。
 しかし、私は、長距離走行で息苦しい中でも、母が何時も、次兄に注意していたことを思い出しながら、〝一生懸命に頑張っているかどうか〟を自問自答しながら走っていた。

 ――私達の小、中学校の時代では、生徒は皆、家族と一緒に昼食を食べるのが、運動会の一番楽しい時間だった。ところが、現在の学校では、家族と昼食を食べさせないそうだ――

 子供達は、学校の教室で、弁当を食べ、親達は、体育館か運動場で別々に弁当を食べることになっているとか……。
 それは、『片親しかいない子供が可愛そうだから』とか、もっともらしい理由が言われているようだが、私は反対だ。少数の生徒のために、大勢の生徒の楽しみや家族との繋がりを奪って良いものだろうか?
 また、このような表面的なことで、学校でかばってもらったとしても、片親がいない現実から逃れられないことを、先生(又は教育委員会)は知るべきだろう。

 父親参観日を、日曜参観日と言い換えたとしても、父親がいない子供の心の足しには、少しもならないと私は思う。このような小手先の措置を考えるよりも、それぞれの現実を直面させ、その中で、淋しい思いをする生徒がいれば、皆でかばい合うように配慮すべきではないだろうか。
 私の経験から、子供のころに淋しい、悔しい思いをしても、我慢をすることを教えることこそ、大切な学校教育の一つであると考えているが、間違いだろうか?


 母は、私たちに対して、毎朝必ず……、
 父の遺影を飾った仏壇に、水とお茶を備えさせると共に、ご飯を炊いた時には一番先に供えて拝ませ、父親のいない現実を実感させていた。
『ならぬ堪忍、するが堪忍!』と現実から目をそらさずに、父親がいなくても、我慢することを美徳として教えてくれていたのだった。
 そのお陰で、父親がいないことも、貧乏で欲しいものが買えないことも、淋しいとか悔しいとか、そんなに深刻に考えたことがなかったように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?