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母の教え№1  はじめに

 ○ はじめに        

 父は、私が一歳九カ月の時出征し、三歳三カ月の時、満州国東安省鶏寧県鶏寧にて戦病死したので、父親に何かをしてもらったと言う記憶が全くない。
 母は、父が戦死した時、八歳二カ月の長男と六歳七カ月の次男と私の三人の男の子を抱えて途方に暮れたに違いない。
 しかし、私は、青年期を迎えるまで、父親がいない事を淋しいと思ったことが、一度も無いのが不思議でならない。子供の頃、悪い事をして戸外に蹴り出されたり、拳骨をもらうこともしばしばだったが、それだけ、母親が、父親の代わりもしていたのだと、自分が親となって初めて気づいている。


 学校等で先生から「父親のいない人」と無配慮に聞かれても、「はいはい」と元気に手を上げていたことが、今もありありと思い出されて来る。
 父親のいない現実から逃避してはいけないと言うことを、常日頃の言動と行動力で身を持って教えてくれたのが母親だった。

 昭和七年一月、母が二十四歳で二つ年下の父と結婚したが、翌月の二月に上海事変が勃発し、新婚生活一カ月足らずで充員召集してしまった。


 その後、昭和十二年の日中戦争・昭和十六年の太平洋戦争と三度も召集し、昭和十八年二月に戦死した。結婚生活十一年目だったが、父がほとんど戦場に行っていたので、「何時も新婚みたいだった」と、さも懐かしそうに笑いながら、何度も何度も話してくれた。


 私は、三人兄弟の中で、一番母と過ごした時間が長いので、母の教えを一番多く受けており、母の〝考え方〟を受継いでいると思っている。
 母は、自分の経験や世間話・例え話で事の良し悪しを教えることが多く、親子四人が夜遅くまで話している姿が、近所の人々から不思議がられていた。


 父の従軍中、集落に一軒の床屋(理容所)だったので、職人を雇って経営していたが、次第に職人もいなくなり、戦中後半からは、母が丸刈りの免許を受けて女手ひとつで開業し、家事と両方で忙しい毎日だった。


 農家主体の地域の人達が相手の床屋だけに、夕方から忙しくなり、終業が夜の十二時近くなることも日常茶飯事だった。
 冬の夜長などは、最後の客が帰った後、火鉢の残り火を囲んで、一家四人が夜中まで話し込むことが多かった。遂々、店のカーテンを閉め忘れて話し込む事があり、近所の人や通行人から不思議がられる羽目になってしまった。


 話の内容は、一日の学校での出来事から、友達と喧嘩したことなどを、三人が思い思いにしゃべる上に、母がこれまでに経験した事や世間話・例え話などを面白く可笑しく話してくれるので、時間がいくら有っても足らず、眠気を忘れて話し込んでいた。
 特に、母のお父さんの話は、頓知がきていて面白く、時間の経つのも忘れて聞き入ったものだった。
 向かいの家からは、夜中に便所に起きた時など、道路を挟んだこちらの様子が丸見えだった。


 向かいの山本さん宅も、男子ばかり五人の母子家庭だったが…、
『毎日、毎日、よくも話があるものよ』『高田さん達は、どんなことを話しているのか』などと、不思議がってよく聞かれると母が笑っていた。


 今回、この〝創作“を書く上で、一番先に思い出すのが母との関係ばかりで、私の人生のほとんどが〝母の教え〟に従って生きてきたと言っても過言ではない。
 そこで、いろいろの場面で身をもって教えてくれた母の教えを、幼児期から順次、紹介することにしたいと思う。


 ○ 生き生き戻れ

 父は、私が一歳九カ月で出征し、三歳三カ月の時、戦病死したので、父の面影らしきものは、何も残ってない。小さい時から、仏壇に掲げられている、軍服姿の黒縁の写真の人が、父さんだと聞かされて育ってきた。ただ、長兄が父親そっくりだと皆が言うが、私には、仏壇の写真がそんなに兄に似ているとは思えなかった。


 父のことは、物心がついた頃になってから、父の知人や戦友と言われる人の話を聞いて、「立派な人物だったのだなあ」と少し思えてくる程度である。
 上海事変・日中戦争・太平洋戦争と三度出征し、軍曹から戦死して曹長になったそうだ。
 また、地元の在郷軍人会会長を受けて、地域の世話をしたりしていたので、当時の戦時下では、軍人として多少誇れるものがあったのかと、長兄の口調から伺えるくらいだ。


 私が、父の遺骨を持って帰ってくれた軍人さんの膝に座って、「父ちゃんが帰った。父ちゃんが帰った」と言って、はしゃいでいる姿を見て周囲の人々の涙を誘ったそうだ。
 私は、家の前にあった防火用水の中で、「何で父ちゃんの生き生き戻れをせなんだんじゃろか? 生き生き戻れしたら良かったのに……」と独り言を言って、死にかけの魚の尻尾を掴んで、引っ張りまわしていたという。
 母から、父の生前ことについて何も聞いたことはないが、毎朝、お茶と水と線香を欠かさず仏壇にあげて三人の子供に拝ませた。また、ご飯を新しく炊いた時は、必ず一番先に父の仏壇に供えて拝むことを実行させて、自然に父を敬うことと、父親はいないのだという現実を私たちに教えていたように思える。

      …父の日や 仏壇の遺影しか 知らず…

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