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母の教え№2  仲 人 口

 ○ 仲 人 口
 
 父が、昭和五年一月、二十歳二カ月で松山二十一連隊に入営し、同時期に母の気難しい弟も二十歳〇カ月で宇和島市から同連隊に入営したそうだ。
 父は、地域の青年団長を経験しており、何事もてきぱきと処理するうえに銃剣道にも強く、隊員の模範生で、寝食を共にしているうちに意気投合したようだった。


 除隊後も同期生との交流があり、時々、宇和島市内で飲食会等を開いていたが、何回か集ううちに、当時、市内の洋品店に勤務していた母の事が話題となり、『父より二歳年上だが、姉を嫁に貰ってくれないか』『君の姉さんなら……』と言うことになり、母抜きで話がとんとん拍子で進み、父方から仲人を立てて、母を嫁にもらいに来る事になった。


 母には、仲人と父の来る日が決まってから、あらためて話があり少々慌てたが、結婚適齢期にもなっていたので、取敢えず承知してしまったとか…。
 仲人さんは、地域の名士で縁結びの経験も豊富とかで、父の家庭の状況等も詳しく丁寧に説明してくれたそうだ。

 その内容は……、
『父は、集落で一軒しかない床屋で、村の青年団長もやっており、人間的にも素晴らしく、地域でも信用があり、村一番の立派な人物だ』また、『姑さんは、村一番難しいと言われる人だが、四~五百メートルも離れた一軒家に住んでおり、同居で無い上に、年寄りは何時までも長生きする訳でもないから、旦那になる人さえ立派な人物であればいいだろう……』


 母は、多少不安もあったが、日頃、気難しい実弟も薦めてくれている人物だし、この時代、親と別居の話など滅多に無いので、「まあいいだろう」と簡単に承諾してしまったが……。


 ところが、その村一番立派な夫とは、十一年足らずで死に別れ、村一番難しいという姑と一生を過ごすことになった。おまけに、母より五歳年上の父の未婚の実姉が姑と同居していることが、仲人さんの説明から洩れていたとか…。
「母の実父から、『仲人口は、信用するな。自分の目で確認しろ』と何時も聞かされていたが、この事だったのだなと気づいた時は、もう後の祭よ!」「これが腐れ縁とでも言うものかな?」と面白、可笑しく何度も何度も笑って話してくれた。
「結婚は、本人どうしの事も大切だが、家と家の繋がりでも有るから、家族や親戚との関係も考えた上で判断したほうがいいよ。娘のことを知りたい時は、その母親を見ればすぐ分かる、することなすこと全く同じだから……」   と自分の経験も入れて教えてくれた。
 母は、何時も笑って話してはいたが、私たち子供の目から見ても、苦労の限りを尽くした人で、この村一番難しい姑と小姑との生活に、残りの半生を尽くしたと言っても過言ではない。
 この姑と小姑とのやり取りについては、順次、〝母の教え〟として紹介して行きたいと思う。


 父が戦死した時、母は盲腸を拗(こじ)らして床に伏しており、父の村葬が出来ず何ヶ月も遅らせてもらったとか……。


 その間、八歳・六歳・三歳の三人の子供の面倒は姑と小姑が見てくれていたが、母の寝ている襖の向こうで、長兄と次兄の着替えをさせながら……、
『病気ばかりする母ちゃんは要るまいが、お前らの面倒は、伯母ちゃんが見てくれる。母ちゃんは、宇和島に帰せや!』と言っていたとか……。
 「次男が、『母ちゃん要る!…』と言って泣くのを小姑が一生懸命なだめている声がもれ聞こえてきたが、あの時は本当に辛かった」と私一人の時、何度も話してくれた。
 この時、長兄が何と言ったかは、母の口からはとうとう聞かれず仕舞いだったが……。


 母が元気な時から、長兄だけは、『長男だ、跡取りだ!』と言って、祖母と伯母さんが、特に大事に面倒を見ており、当時の慣習が伺えて来る。


 母の生まれは、明治四十年十月十二日だったが、父が戦死してから、姑と小姑が豹変して、『本当は、明治三十九年の丙午(ひのえうま)に生まれたものを、親が誤魔化して届けたのだ』と隣近所に言い触らして、何かにつけて虐められたが、「うちの宇和島の実父ちゃんは、そんな曲がったことをする人じゃあない」ときっぱりと言い切ってくれた。
 母は、「跡取り息子が戦死して、二人とも気が動転したのだろう。母ちゃんが親の立場なら、こじつけて嫁の所為(せい)にしたい気持ちも、少しは分かるけど……」と言って笑っていた。


 さらに、母は、「昔から丙午(ひのえうま)の女は、気性が激しく男を食い殺すと信じられ、結婚が難しく、親が生まれ年を遅らして届けたり、女の子を間引きしたと言う話が今も残っており、これは、江戸時代に火付けをした『八百屋お七』が、丙午生まれだったと言われる事から来ている迷信で、こんな迷信を信じて差別する人は、他人を不幸にするばかりか、自分自身も決して幸せにはなれない」とも教えてくれた。


 この姑が、昭和四十一年・八十五歳で永眠するまでの三十三年間の中で、最後は、『はなこ・花子』と母の名前を呼んで、何をするにしても、『花子でないといけん』と言わせるまで仕えた母の優しさと根性には、頭の下がる思いがする。
「人生は、映画や芝居と同じことよ!」
 と言うのが母の口癖だった。
「映画や芝居は、一時間か二時間で結末が出るので、次の場面で、悪人がすぐに善人に変わるが、人生では、悪人が善人になるには何十年もかかる」  「どんな人にでも、誠心誠意尽くしてさえおけば、一枚一枚薄紙を剥がすように変わって行くものだ」と教えてくれた。
 姑は、最後は子宮癌で苦しんで死んだが、実の娘(小姑)の看病では納得出来ず、母が最後まで看取る事となった。
『誰か看護を替わらんと病人より、花子さんの方が先に逝くぞよ!』と見舞いに来た近所の人々が心配して、実の娘と交替させても、二日ともたず、姑の懇願で母の看病に戻ってしまう。


 私は母が、どんな人に対しても誠心誠意尽くす事の大切さを、自分の命を削って教えてくれたと今も思っている。
 姑の死後、小姑のヨシエも、昭和五十六年・七十五歳で母が永眠するまでの十五年間、母を、「花子さん、花子さん」と言って頼りにして暮らす事になったのも、この世の人の巡り合わせというものだろう。
 母は、『因果応報』と言う言葉を好んで使っていた。
「ヨシエさんも、当時は、宇和島に帰せやと言って嫌っていた母ちゃんと、四十八年間も付き合おうとは、考えなかっただろうな」と昔を偲んで笑っていたのが印象的だった。
 なお、これまでの事を根に持って、一人残った小姑に、辛く当たるような気持ちの狭い母では無かったことを付け加えて置きたい

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