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母の教え№5  雑  炊

○ 雑  炊

 戦後、ものの少ない時代の夕食は、米一合とその日に手に入った野菜類を混ぜ込んだ雑炊を四十数センチメートルほどの鋳物の大鍋で炊いて、母と六歳・九歳・十一歳の男子の一家四人が食べるのが一番のご馳走だった。


 ぐつぐつと湧き上がっている鍋いっぱいの雑炊を見た時は、いくらなんでもこんなには食べられないだろうと誰もが思っていたが、それがいつもあっというまに空になるまで食べつくしていた。


 朝は、食べたり食べなかったり、昼は、カボチャかジャガイモのふかしたものがあればいいほうで、時には、古せ芋を食べなければならない日が何日か続いたこともあった。
 古せ芋は、芋つるを取った後の親芋で、ふかしても筋ばかりで、摘むと甘味の無い水がにじみ出て食べられたものではない。
 しかし、この古せ芋も、畑のない家庭では手に入らず、知人のお百姓さんに頼んで譲ってもらうしかなかった。
『うちは、部屋の祖母ちゃん達が、少し畑を作っていたので、野菜類はもらっているだろうと皆から思われていて、なかなかお百姓さんから分けてもらいぬくい』と母がこぼしているのを聞いたことがある。
 でも、うちは、商売が〝床屋〟で、毎日小銭が入ることと、お百姓のお客が多かったので、母がいろいろと手を尽くして入手していたようだった。


 こんな毎日だから、夕食は、米粒にありつくかけがえの無い一時で、水分の多い雑炊といえども満腹になるまで食べられる喜びでいっぱいだった。
 満腹といえば、腹いっぱい食べること。いわゆる、胃袋がいっぱいになることを一般的にはいうと思うが、私たちの腹いっぱいは、胃袋を超えて、口まで満杯になることで、食事の後しばらくは、身体をタンスか柱にもたせ掛けて休んでいた。
『食後すぐに横になると牛になる』と子供のころよく怒られていたが……、
 この雑炊を食べた後は、横になるどころか、口から出ないようにするのが精いっぱいで、三人とも胃袋が落ち着くまで何かにもたれてじっと座っていた。
 悲しいかな、こんなに腹いっぱい食べていても、水分の多い雑炊だけにすぐに腹が空いてしまった。


 そんな時母は……、
『この時代、満腹になるまで食事ができるということ事態ありがたいことよ。こんな雑炊でも、食べたくても食べられない人はたくさんいる。贅沢言うと罰が当たるぞ!』と釘を刺すのを忘れなかった。
「三人の子供が、目の色を変えて一心に食べる姿を目のあたりにした母自身は、十分に食べていたのだろうか?」と三人の子供を持つ親になって初めて、当時の母の心境を思いだすようになった。
 ところが、この歳になってもこの時の食習慣が抜けきれず、肥満・糖尿ぎみと言われていても、出されたものは、全部たいらげてしまわないと気が治まらないので困っている。
 また、インスタントラーメンや味噌汁の残り汁に、野菜・豆腐・残飯などをごちゃ混ぜにして雑炊を作り、うまいうまいと言って食べるので、いつも我が家の子供達からひんしゅくをかってしまう。
 昔を懐かしんで作った牛肉入りの上等のものでも、子供達は、見ただけで食べてくれないので、雑炊を炊いた時は、いつも妻と二人だけの淋しい食事になってしまう。
 このように雑炊は、最近では私の得意料理のレパートリーの一つにもなっている。

――高校を卒業して就職した郵便局の郵政研修所でのことだが――

 一年間の研修生活の夏休みに、テニス部の合宿の一環として、二十歳から二十五歳までの二十数人が一泊二日のキャンプを琵琶湖で実施することになった。
 メインは、夕食の豪華なカレーライスとキャンプファイヤーで、予定どおりゲーム係と食事係が奮闘し、美味しいカレーライスと面白いかくし芸やゲームで楽しい一夜を過ごすことができた。
 また、夜遅くまで各テントの中では、ゲームやトランプを楽しみ、一応キャンプは成功したかに思えたが…、

 翌朝になって……、
『朝食用の米が無くなっている!』と朝食係が騒ぎだした。全員がたたき起こされ、一人ずつ詰問されたが、誰もが知らないと言う。
 結局、夕食係の誰かが、朝食用に取っていた米も夕食に炊いてしまったということだった。        
『道理でカレーが少なくて、ライスが余ってたわい』『やっぱり食事係は、大役でも同じ者が担当しないといかんなあ!』と皆が反省しながら、大笑いしてその場は収まり、それぞれのテントで二度寝入りすることになった。
 私は、テント張りなどの雑用係だったので、そのまま自分のテントに潜り込んで、一眠りしようとした時……、
『山田さん、すまんが来てや!』と朝食係の斉藤君に無理やり起こされた。

 渋々と斉藤君に着いて行くと、朝食係が全員集まって、朝食をどうするかで議論中だった。
『味噌汁用の豆腐が二丁とカレー用のジャガイモ・にんじん・たまねぎが少々残っているだけで、米がぜんぜん無い』
『早朝から、お店も開いてないし……』
 買い出しの時、『予備に、インスタントラーメンを買ったら』と言ったら、『そんなもんいらん!』と斉藤君が反対したし…… 
 と斉藤君が、私を必死に起こした理由がやっと理解できたので、私は、残っている食材を確認しながら皆の話を聞いた。
「昨夜のご飯は、どうなっているかな?」と朝食係阿部君に尋ねたら……、
『油虫が這っていたので、残飯にして、捨てようと思っている』という答えが返ってきた。
 出汁には、味噌汁用の豚肉が残してあるということだったので、朝食は、斉藤君と私が請負うということで皆を解散させた。
 二人は、眠い目を擦りながら、昨夜、カレーを炊いた大鍋に味噌汁用の豚肉を入れ、出汁を十分出し、残っていた野菜類を全部叩き込んだ後、昨夜の残飯をきれいに洗って入れ、強火でぐつぐつと炊いた。
 四十分位たったころ、朝食係の数人が気になったのか……、
『いい臭いがしてきたが、なにができたんぞ?』『心配で寝ておれん!』と二、三人が、のこのこと起きてきた。
 私は、弾んだ声で、「もう五分したら炊けるけん、皆を起こしてや!」と自信を持って叫んだ。
 全員が、それぞれに茶碗類を持って期待して集まった。
大鍋の蓋を開けると、真っ白い湯気とともに、味噌と豚肉の美味しい臭いがそこら一面に漂っていった。
 まず一番に私が味見をしたが、思わぬ出来栄えに少々得意になって大声で叫んだ。
「これは、美味い。はよう皆もたべてや」
『……‼」
『……?』
 斉藤君が、杓文字に汁を少しすくって自分の茶碗に入れ、恐る恐るすすりながら……、
『いい味でてるよ』と力なくつぶやいた。
 一同は、お互いが顔を見合わせるだけで、誰も進んで杓文字を持とうとしないで沈黙が続いた。
 しばらく経って、一番年長組の外山くんが、分厚い手で大きな丼に雑炊をいっぱいついでから……、
『これは、雑炊だよ! いい味してるよ、皆も早く食べようぜ!』と勧めてくれたが、その後、誰も杓文字を持とうとしなかった。
 役柄からしかたなく斉藤君が、茶碗に半分位ついで、いやいや雑炊をすすったが、他の者は、交互に大鍋の中を不思議そうに覗くだけだった。
『昨夜のご飯は、油虫が這っていたよ!』と朝食係の足立君が言ったものだから、それが決定打となり、即座に美味しい雑炊が残飯以下になり下がってしまった。
「ご飯は、何度も何度もきれいに洗ったよ」と私が言って説得しても……、
『油虫がなんだ、ぐつぐつ炊いたら奇麗なものよ。早く食べようぜ!』と外山くんが進めてくれても、誰一人食べようとしなかった。
「戦後は、よく食べたなあ。懐かしいなあ!」と私がすすめても、
『こんなに出汁の効いた雑炊は、滅多に味わえんよ。うまいうまい!』と言って外山くんと二人ですすめて、満腹になるまで食べて見せたが、子供達の時と同じ目つきで見られるだけで誰も食べてくれなかった。
 いくら二人が頑張って食べても、悲しいかな二十人分の大鍋の雑炊は少しも減らず、処分に困ってしまった。
「こんなに美味しい雑炊を、皆が食べてくれないなら、魚にやろう!」と私は、皆に聞こえるような大声で叫んで、大鍋を湖面に浮かべ沖に向かって泳ぎだした。


 朝方の琵琶湖は、波ひとつ無く鏡の上を滑るように大鍋は、沖へ沖へと進んで行った。
 私は、大鍋を沖に向かって押しながら泳いでいるうちに何故か涙が頬を伝ってきた。
 皆に喜んでもらおうと、精一杯作った雑炊を食べてくれなかった悔しさと勿体なさとが入り混じり、何ともいえない虚しさが込み上げてきた。
 沖へ沖へと泳いで行くうちに、母と兄弟三人が食べた雑炊のことが、昨日のことのように思い出され改めて涙が込み上げてきた。


 百数十メートルも沖に出た時、ふと我に帰ると、岸辺で皆が騒いでいる声が聞こえてきた。
『山田くーん、その辺でいいだろう……』
『鍋は、寮母さんに無理に借りたもんだから、捨てるなよー』
『危ないから、早く帰って来い』と口々に心配してくれてはいたが、雑炊のことは誰も口に出さず、何故か素直に帰る気持ちになれなかった。


 私は、泳ぎには自信があったが、部員には、泳ぎが不得意な者もおり、いきなり顔色を変えて沖に向かって泳ぎだしたので、随分、私を心配してくれたようだった。


『満腹になるまで食事ができるということ事態、ありがたいことよ』『こんな雑炊でも、食べたくても食べられない人はたくさんいる。贅沢言うと罰が当たるぞ!』と母に叱られたのは、この間のことのように思い出されてきた。

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