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舛田の軌跡

はじめに

こんにちは。
伊豆半島の中央部に位置する修善寺という場所で、和紙漉きの職人をやっています、舛田拓人と申します。
ここでは、私の自己紹介というか、これまでの人生の歩みを書いていこうと思っています。
(長編です。)

なぜこんな記事を書こうと思ったかを少しご説明しますと、
以前工房へいらっしゃったお客様で、写真屋さんをやっている方がいらっしゃいました。
その方のホームページを見たところ、「ひととなり」というページが。
その中には、その方が歩んできた人生が記されており、なぜそのような活動をされているのか、どういう経緯で今に至るのかということが説明されていました。
それを見て私自身、この人に写真を頼んでみたいな。という気持ちになりましたし、お客様に自分という「人」を知ってもらうことの重要性を大きく感じました。
是非真似させてもらおうということで、今回このような記事を作成するに至りました。

皆様が使おうとしている”修善寺紙”をつくるのはどういう人物なのか。
少しでも安心して修善寺紙を使ってもらえるように、私の人生をご紹介していこうと思っています。
そして最後には、なぜ私が修善寺で和紙の職人になることを決意したのか、そして一体何を目指しているのかを書いていきたいと思います。
最後までお付き合いいただけますと幸いです。


※参考にさせていただいた写真家さんのHPはコチラ↓

素敵な写真に、素敵な「ひととなり」です。是非見てみてください。


生まれたときから人見知り

生まれは富山県富山市。
冬は毎年氷点下まで気温が下がり、雪が膝くらいまで降り積もる、そんな伊豆と正反対の気候の雪国で生まれ育ちました。

もちろん幼少期の記憶は無いに等しいですが、両親から聞くには「生まれたときから人見知りだった」そうです。
この人見知りは今でも変わらずですが、当初は今よりも相当ひどかったようで、幼稚園の帰りに「さようなら」を言うのさえ恥ずかしかったらしく、帽子を深くかぶることで「さようなら」を回避していたとのこと。姑息です。

そんな人見知りも、同じコミュニティ内にいれば、だんだんとなくなっていくようで、友達も何人か出来、普通に生活していたように思います。
そんなとき、次に出てきた性格は「真面目」。いや、根っこにあるのは「褒められたい」という気持ちだったんじゃないかと思います。
よく、幼稚園内で移動をするときは2列くらいに整列させられたと思いますが、そんなとき私が真っ先にやっていたのが「前へならえ」です。誰よりも早く、一人でピシッと腕を前へ伸ばして並んでいた記憶がなぜかあります。今その光景を想像すると笑えますが、とにかく褒められたかったのでしょう。
この性格はある程度大きくなっても変わることはなくて、どの先生からも実力以上に評価が高かったと思います。大人を喜ばせるのが大好きな子供でした。

小1で出会った一筋の光

そんな「人見知り」の「褒められたがり」が小学校で運命の出会いを果たします。
それが”サッカー”というスポーツでした。

出会いは小学1年生の時、サッカークラブの体験入部でのことでした。
幼稚園の時、体操教室に通わせてもらっていて、自分は運動がそれなりに得意だということに気づいていたのか、小学生になったら野球かサッカーをやろうと決めていました。
野球クラブは本格的には3年生からの入部であったことや、祖父が野球をできるので教えてもらえるということもあって、
ならばクラブはサッカーに入ろう!ということでサッカークラブへの入部を決めました。
そこからは、あっという間にサッカー漬けの人生に。後で詳しく述べますが、サッカーが自分に与えてくれたものは本当に大きくて、人見知りの自分を助けてくれる大きな存在との出会いになりました。

祖父に対して当初は、野球教えて!と意気込んでグローブまで買ってもらったのに、ほとんど使いませんでした。じいちゃんごめん。。

辛かった日々

こんなにサッカーが大きな存在だった!とか言っていると、サッカーを始めた当初は楽しくて仕方なかったのでは?と思われる方が多いかもしれませんが、私に残っている当時の記憶は「辛さ」ばかりです。

火、木、金が練習日、土、日が試合という感じの日々を送っていたのですが、当時一番楽しみだったのは月曜日でした。
理由は明確。
監督がメチャクチャ怖かった。。。
練習も試合も嫌だったのです。多分。

もはや時効ですし、今となっては有難い経験だと思っているので、あえて書きますが、
小学1年生で入部した瞬間から、笛が鳴ったらダッシュで集合が当たり前で、挨拶や荷物の整理など、細かい所にもとにかく厳しい。
これらはまあ当たり前なのですが、
ミーティングは怒鳴られて説教されることが基本で、プレーのミスにはもれなく「アホ」や「アンポンタン」という罵声がとんでくる。頭をはたかれたり、おしりを蹴られることも。完全に怯えてました。
平成生まれですが昭和の生き残りだと思ってます。(笑)

はじめての成功体験

そんな辛い日々の中でも何とか現状を打破しようと、当時の舛田少年は行動を起こしました。

ご紹介の通り、少年時代の私は激しく人見知りの性格です。その性格もあって、試合中もおとなしく静かにプレーすることがほとんどでした。
声を出すことが大事だ!と言われてもなかなか声を出せない。もじもじもじもじしていました。それどころか練習が嫌になって、精神的なものからか、体が痛くなったり、病気をすることも多々。

今思い返すと、そんな自分に嫌気がさしたのかもしれません。

小学4年生のある日だったと記憶しています。私はピッチに入り、試合開始のホイッスルが鳴る直前、大声を張り上げました。

「絶対勝つぞ!」
「声出していこう!」
「集中しよう!」

昨日まで、ほぼ一言も発さずにプレーしていた自分が、
試合が始まってから終わるまで、休むことなく、ずっと大声を出し続けてプレーをしました。
なんてことない、内容も特にない声出したったと思います。
それでも、当時の自分にとっては大きすぎる一歩で、目の前にある大きな壁を打ち破ったという初めての感覚がありました。
不思議なことに、サッカーのプレー面でも好循環が生まれ、今までにない好プレーを連発しました。
大声を出すという、ほんの少しの勇気と行動で、こんなにも結果が変わるんだということを身をもって感じた瞬間でした。
やりきったあと、全身に鳥肌が立っていたことを今でも覚えています。

人生最大の分岐点

そんなこんなで、辛い日々の中でもなんとか光を見出して、サッカーを続けていたわけですが、小学校を卒業し中学校へ入学する際、私の前に2つの分かれ道が現れました。

・中学校の部活へ進むべきか
・クラブチームへ進むべきか

少し当時のサッカーチーム事情についてご説明します。
中学生年代でサッカーをするとき、もちろんどこかのチームに所属することになるわけですが、2つの選択肢がありました。それが先ほど挙げた、
・中学校の部活動
・クラブチーム
の2つです。

部活動についてはどの競技にもあるように、学校の部活動としてチームに所属するというもの。これはイメージがしやすいと思います。

それに加えてサッカーでは、クラブチームという選択肢がありました。
これは自分の通う学校とは関係なく、好きな(場合によっては選考試験があったりもします)クラブチームに所属することができるものです。その場合、学校の部活動での活動は基本的には行わず、クラブチームの所属になります。Jリーグの下部組織のクラブチームもあれば、街のクラブチームもあります。クラブチームは部活動とは異なるすみ分けで、基本的には普段の試合も別のリーグで行われていました。部活動だとしても強豪校というのはありますしクラブチームでも弱いチームはあり、一概には言えませんが、基本的にはクラブチームに所属した方が、サッカーそのものの上達はいい傾向にあると思います。

当時私が選んだ選択は「部活動」でした。
そして迷って選ばなかったのが、県で1,2を争う実力のクラブチームでした。

・部活でも小学生時代をともに戦った優秀なメンバーと上を目指せると思っていたこと
・サッカー以外に勉強もしなければならないと思っていたこと
・クラブチームで本当にやっていけるのかという少し弱気な思い

こんなことが理由での選択だったと思いますが、当時の夢であったプロサッカー選手になるということを考えると、どうだったのか。

人生でいろんな分岐点がありましたが、一つとして後悔している決断はありません。
ただ唯一、中学でのサッカーチーム選びのこの選択だけは、後悔ではありませんが、別の道を選んでいたら、人生は大きく違うものになっていた気がしています。

高校の選択

富山県で高校サッカーといえば名門「富山第一高校」や「水橋高校」が浮かぶ方が多いと思います。多くのプロサッカー選手、日本代表選手を輩出している高校です。

プロになりたいなら、まだまだ諦めるときじゃない。
今の自分が当時の自分にメッセージを伝えられるなら、声を大にして言いたいですが、当時の自分はきっと半分諦めていた気がします。
サッカーの推薦でどこかによばれることもなく、自力でどこかの高校へ行くしかありませんでした。

そこで私が選んだのは「富山中部高校」
富山県でNo.1の進学校で、毎年東大やら医学部やらにじゃんじゃか進学する知の化け物が集まる学校です。
そんな高校ですが、サッカー部は強豪。年によりますが当時、富山で5本の指に入るくらいの実力がある高校でした。

奇跡的に中学時代の私は勉強がそれなりにできまして、富山中部高校へ入学することができ、そこで3年間修業ともいえる日々を過ごすことになりました。

本当にきつかった高校3年間

高校3年間を一言でいうと、「人生で一番きつい期間」だった気がします。
もちろんまだ人生長いので、これ以上にきついことが待っているかもしれませんが、今のところ、この3年間を超えるようなきついことはありません。

何がそんなにきついのかというと、まずはもちろんお勉強。
よく「文武両道」という言葉を聞くと思いますが、富山中部高校の場合は、「文武文」。文が一個多い。「4,6,8」という決まりがあって、平日は4時間、土曜授業の日は6時間、休みの日は8時間、自分の時間を学習に充てるのが基本で、それに見合った課題の量が出される。その課題がこなせなければ、先生によっては怒号が飛んでくる。
入学当日からその課題の多さと厳しさに圧倒されました。

授業を受けて、サッカーの厳しい練習をして、帰って課題と、その日の復習と、次の日の予習をする。そんな日々が3年間続きました。サッカーの練習の後は、どうしても眠気が襲ってきて、寝てしまって、試験前や課題の提出日前は徹夜するしかないなんてことも多かったです。
そして周りのみんなは、涼しい顔でその勉強をこなしていることに対してのプレッシャー。正直、勉強の面では私はパニックに陥っていたと思います。どうしようもなかった。本当に苦しい思いをしました。

そんな感じの生活の中に、無理やりサッカーをねじ込んでいる感じです。
勉強でさえもいっぱいいっぱいなのに、そこにサッカーを追加して、
しかもそのサッカーでは、本気であの富山第一や水橋という強豪に勝って県のチャンピオンになることを目指していました。本当に、1日、1分、1秒たりとも無駄にしてはならないという空気が流れていて、あんなに濃い3年間は今後やろうと思ってもなかなかできない気がします。10年以上の月日が経った今も、けっこうな頻度で当時の夢を見たりします。それくらい強烈でした。

自分の基礎を作った高校サッカー

そんな中でもやはり私を救ったのはサッカーでした。

高校1年生の秋、選手権という大きな大会の予選でふがいないプレーをしていた私に、監督は「お前は俺が自信をもって選んだ選手だ。何も恐れることはない。責任は俺が全部取る。思い切ってやって来い。」と声をかけてくれました。そこから私はふっきれてプレーできるようになり、チーム内で自分の立ち位置を確保していくことができました。
そうやって監督が与えてくれたサッカーをできる場。それが高校時代の私にとって唯一の居場所だったと思います。
そんな恵まれた環境でサッカーをできたことが自分にとって本当に救いでした。

当時の我々のチームでは、あるテーマが設定されていました。

「自主・自立・自律」

1人の大人になるうえで欠かせないキーワード。
これを3年間かけて、チームだけでなく、自分自身の中でも大切なものとして刻み込んでいったように思います。

最終学年時には、チームのキャプテンをやらせてもらい「自主・自立・自律」を体現するべく、さらに自分達を磨き上げました。3年時の高校総体では、後に優勝することになる水橋高校に対して1-1の同点、PK戦まで持ち込むも敗退。
最後勝ちきれないのが何とも自分らしいのですが、チームを作っていく過程で、自分たちで考え、必要なものを得るために、自ら行動におこしていく。そんな人としてのベースを作ることができたように思います。

新潟大学への進学

高校サッカーは、
・春にある高校総体で引退する者
・リーグ戦が終わる夏で引退する者
・選手権が終わる秋~冬で引退する者
と3種類の人がいるのですが、進学校である本校は、春もしくは夏に引退する者がほとんど。
ただ私は、サッカー命人間でしたので、勉強ができなかったにも関わらず、秋の選手権までサッカーを続けました。

3年時はほぼ完璧に近い生活スタイルを身に着けることができたので、まったくサッカーのせいで受験に失敗したとは思っていないのですが、(1,2年時勉強できなかったときのツケが大きすぎた…)センター試験に大失敗し、ここしか無理か…という感じで新潟大学へ進学しました。

大学でもサッカーにのめりこむわけですが、
サッカーや勉強以外についても知りたいという思いがあったため、週6回活動の部活ではなく、週3回活動のサークルを選びました。
ここも人生の選択でしたが、これはこれでいい選択だったと思っています。

例えば、はじめてのアルバイトも経験しました。居酒屋のホール業でした。
こんなのありきたりですが、人見知りの自分にとっては本当に大きな経験でした。
社会に出たときに、幸せに生活するためには絶対に人とかかわっていかなければならない。そのためにはある程度話すことに慣れなければならない
それを矯正するためのホール業という選択でした。
これが大成功だったと思っていて、嫌なお客さんと当たってそれなりに嫌な思いもしましたが、それでも話すことの抵抗がだいぶ薄れ、いろんな人と話し、受け入れるための器ができるきっかけになったと思います。

トライボロジー研究室へ

私が進学したのは、新潟大学の工学部機械システム工学科というところでした。
高校3年生当時の担任の物理の先生に、
・現象というよりも出来上がるモノに興味があるということ
・まだやりたいことが具体的には定まっていないということ
を伝えたところ、それなら工学部の機械科だ!という助言を受けて進路を決定しました。というのも機械科は、つぶしの利く学科で、どんな会社もモノづくりを行うところであれば機械があるので、需要が高いと考えられていました。

大学4年時には、機械科の中でも各研究室へ配属されることになります。
これまたとてもたくさんの研究室があるのですが、このときようやく私は、将来働くことを考えるようになりました。

選んだのはトライボロジー研究室。
摩擦や摩耗といった研究を行う分野の研究室です。

ここを選んだ理由は、
サッカーシューズの開発をしたいと思ったためでした。

私を何度も救ってくれて、私自身を作ってくれたサッカー。
そのサッカーに何とか恩返しがしたい。
日本のサッカーに貢献できる仕事で、自分にできることはないのか。
それを考えた結果が、サッカーシューズの開発でした。

研究室では、大学院の2年を含む3年間、靴底と床面の摩擦メカニズムを解明する研究を行いました。この経験が、将来の自分へとつながっていきます。

ミズノ株式会社へ滑り込み入社

研究のかいもあって、なんとかミズノ株式会社へ入社することに成功。
新潟大学からは10年以上就職実績がなかったようで、すべて自分で調査、行動して手に入れた就職内定だったので、とにかく嬉しかった。
それと同時に、自分がミズノの一員として働いていくことへの重責のようなものが一瞬にして身にのしかかり、内定の電話を頂いた直後、吐き気がしたのを覚えています。

ミズノへ入社後、新入社員研修を経て、なぜかわかりませんが運よく靴の部署へ配属になり、更に1年目の1月には、これまた運よくサッカー関連のシューズの開発担当に抜擢。
とんとん拍子で一番やりたかった仕事に就くことになりました。

それからは怒涛の日々で、一からシューズの設計を学び、海外工場と得意でもなかった英語でやり取りをして、形にしていく日々が続きました。
時には、選手に会いに行って意見を聞いたり、デザイナーや上司と喧嘩、ではないけど熱い議論を交わし足りして、いろんなモノを開発していきました。


私の開発品を並べておきます(笑)見てみてね。


夢の仕事なのに幸せにならないという違和感

そんな怒涛の日々を過ごす中で、確かに自分がやりたい仕事をやれているわけで、幸せなはずなのに、なぜかそうではない自分がいました。
何が原因なのか、長くもがき苦しんだ気がします。
そしていろんなことを考える中で、ある日こんなことを思ってしまう自分がいました。

「サッカースパイクの開発って、本質的に、日本サッカーの発展に寄与できる仕事なのだろうか」

そう考えたとたん、自分の中にいろんな邪念のようなものが入り込んできました。
・選手ヒアリングの際の「今のスパイクが一番いい。変えないでくれ。」という言葉。
・「結局売れるのはかっこいいデザインだよね」という言葉。
・「本質的な機能はいいから、うたえる何かがあればいいんだ」と、目先の開発に追われる日々。

本来開発者は、こんな邪念に一切耳を貸さず、自分の実現したいことに向かって、ひたすらに研究や開発を進めるべきで、その先に技術革新があるのだと思います。
でも自分はそうは出来なかった。

コミュニケーションが下手で、モノづくりが好きで、理系のことがどちらかといえば得意で、、、
そんな理由から、サッカースパイクの開発者を目指してそれを手に入れたのだけど、自分の中に、こんなスパイクで日本サッカーを変えたい。という具体的なビジョンもなければ、熱い想いも会社でいろんな業務をこなして現実を見ていくうちに、薄くなっていったのだと思います。

試行錯誤

そしてそんな時やってきたのが、新型コロナウイルスでした。
在宅で仕事をすることが増え、通勤にかけていた往復2時間以上の時間が自分の時間になったことで、自問自答は加速。
もう、その場にとどまるという選択肢はなくなっていました。

自分ができる、サッカーへの関わり方をもう一度探し直そう。
そう思って行動しました。

まずはコロナで配られた給付金を全額はたいて、高性能PCを購入
VR開発に取り組みました。
プロ選手の目線をVRを使って映し出し、選手に提供出来たら、絶対に日本サッカーは向上するだろう!と思って始めたのですが、難易度が高かった。普通に挫折しました。

そして次に目を向けたのが、サッカーの裾野を広げる取り組み。
これはある程度長く続けました。
1年間かけて、J1の18クラブ、すべてのスタジアムへ行き、スタジアムやアクセス、スタジアムグルメに、チーム自体のことを解説、更に付近の観光情報について、Youtubeで発信しました。
妻にも協力してもらい、家族でサッカーが楽しめるということを皆に伝えようという取り組みを、仕事の傍ら副業的に行いました。

それなりに得るものはありましたが、それで生活していくということは難しく、こうしたら視聴数は伸びるだろうなあと思うことがあっても、日本サッカーのためにはそうではないよな、というサッカーへの強い思いが、ビジネスの邪魔をしているような感覚に陥りました。


当時やっていたYouTubeです↓ 見てみてね。


サッカーから離れるという決断

そんな経験を経て私はある決断をしました。

「サッカーから一度離れる」というものです。

私にとって、サッカーは自分を作ってくれた、全てともいえるもの。
これまで離れることを考えたこともありませんでした。

でも、Youtubeをやってみて「自分の想いが強いから稼げないんだよー」なんて言っている自分がダサくてダサくて。
じゃあ、そんな想いが強すぎるものじゃないことをビジネスにしたら、お前は成功できるのかよ?
そんな風に自分へ挑戦状をたたきつけました。

自分がやりたいようにやれる場で、何のしがらみもない場で、何も言い訳もできないフィールドをつくったら、自分はどこまでできるのか。
それを確かめようと思いました。

伝統工芸の世界へ

まずサッカーから離れることは決めた。
じゃあどこで何をすべきか。

それを考えるとき、立ち返ったのは「なぜ夢の仕事をしているのに幸せと感じられなかったのか」について。

自分の過去を振り返って、うまくいっているとき、うまくいっていないときをグループ分けしている中で、ある仮説を立てました。
それは
「自分自身が決断をして、自分を表現できているとき、私は幸せを感じる」
というものでした。

思い返せばそうでした。

あまり幸せではなかったりうまくいっていないのは

・とにかく課題に追われ、全てがやらされている状態だった高校時代の勉強。
・基本は親の元で言うことを聞かなければならなかった高校生までの親との同居生活。
・会社の中で、これをやれあれをやれ状態のとき。

幸せを感じたりうまくいっていたのは

・課題量が少なく自ら参考書を買っていた中学時代の勉強。
・一人暮らしで自分で自由にやることや活動の時間を決められた大学生以降の生活。そこでのしかかる、家事や生活費の捻出などは、まったく苦にならなかった。
・自分で調査し、行動し、勝ち取った就職活動。

そう考えたとき、私が幸せになるためには、
やりたいこと(日本サッカーのために働く)の前に、
自分が決断できる環境にいることが大前提としてあるのではと考えました。

その瞬間、もうサラリーマンじゃだめだなと、思いました。
規模は小さくていいから、まずは自分が決定権を持てる仕事を始めよう。そして、日本市場が縮小する今、世界に向けて個人でも通用するものは何だ。

その中で私が出した答えが「伝統工芸」でした。

伝統工芸のもつ可能性

参照:https://shikinobi.com/kougei-gensyou

伝統工芸はご存知の通り、担い手不足が顕著です。
いろんなことが工業化、機械化された今、わざわざ手仕事を仕事にしようと思う人はなかなかいませんし、お金も稼げないのでは余計に人は離れていきます。

ただ、そういった工業化の世界が進みに進んだ今、この世界は物であふれ、そして品質は高止まりし、商品の差が分からない時代になってきました。
そんな中で人が選んでいく基準はというと、まずは「価格」
価格が安い方を選ぶ人は多いと思います。これは大量生産できる大資本企業の一人勝ちになるはず。

日本企業は職人気質の人が多いので、それでも品質の高いオンリーワンを作れば、売れるはず!と思うかもしれませんが、
例えいいものを作ったとしても、大企業が大資本をもってすぐに真似してしまう。というか、このすべてが高品質化した時代に、それを超えるいいものを作るためには、莫大な研究開発費が必要になるため、その点でも大企業に対して勝ち目はないと思います。

では何であれば大企業に対して勝ち目があるのか。

その答えは「歴史」だと思いました。

歴史はどう頑張ったって真似できない。
そのものが続いてきたという事実には、お金で買えない価値があり、それが今後大きなものになるだろう

そんな想いから、伝統工芸の職人になることを決めました。

修善寺紙との出会い

具体的に、伝統工芸の職人になるためにはどうしたらいいのか。
しらみつぶしに調べてまわりました。
調べている中で、でてきたのは、「課題」でした。

先ほども述べた通り、伝統工芸の世界は後継者不足が顕著です。
その理由の大きな一つに「特に一人前になるまでの修業期間に食べていくことができないこと」とありました。

たしかに始めようと思っても、給料をもらえないのでは生きていくことができません。たとえ少しもらえたとしても、後はアルバイトをして稼ぐことになることが多く、その分本業に割ける時間がなくなり、成功からは遠のきます。

なんとかならないのか。
そこで見つけたのが「地域おこし協力隊」という制度でした。

少しこれについて説明すると、
都市部に住む若者が地方に移住をし、その地方の課題解決に取り組むことで、生活費や活動費を含めた補助金が3年間支給される
という国の制度です。

私にとってはピッタリの制度で、これだ!と思い、早速、地域おこし協力隊募集サイトで「伝統工芸」と検索しました。

そこで出てきたのが
静岡県伊豆市「修善寺紙の継承」
でした。


地域おこし協力隊はこちらから↓


来た事もなかった修善寺への移住

そこからは早かったです。
早速必要書類を送付して、その後にオンラインでの面接を受けました。

メールや電話ではなく、書類での合否発表だったので、
届くのが遅く、あー落ちたかなあ、、と思っていたら採用通知が届き、
家の解約、引っ越しの準備、会社への報告と、とんとん話が進んでいきました。

ただひとつ、大変苦労したのは、親の説得でした。
親からしたら、大金をはたいて大学院まで通わせて、やっと大企業で安定した仕事について一安心していたところに、この報告です。
遠方にもかかわらず、3度ほど説得に来られましたし、怒鳴られもしました。

でも、私は自分の中でプロセスを踏んで決めたことを曲げたことはありません。自分のことを決められるのは、自分だけです。
この瞬間は、大変な親不孝者でしたし、心も痛かったし、うつになりそうなくらいでしたが、
それでも前に進むために、意見を押し通しました。
あとは、自分の決断が正しかったということを、結果で見せるだけだと思っています。

修善寺紙を世界へ

そんなこんなで移住してきた修善寺で、「修善寺紙の継承」をミッションに毎日せっせと働いております。

こっちにきてからの日々について感想を述べるとすると、
「とにかく楽しい」
です。

私にとってはとてもいい意味で放任されていて、ほぼすべてのことを自分で考え、決断しています。
やはり私の仮説は正しかったなと思います。

幸せは手に入れましたが、生きていく上で現実的に必要なのはお金です。
そして、修善寺紙でお金を稼ぐこと自体が、修善寺紙を後世へつなげていくことにも直結すると考えています。

和紙の世界を志す人は、「和紙の柔らかな手触りに心を打たれた」とか「和紙の光を通すあの感じが好き」とか、なんかそんな感じの和紙自体が大好きな人が多いし、そんなストーリーが自分にもあれば綺麗だなと思いますが、私は違います。がっかりされた方もいるかもしれません。

でも、そんな和紙の世界で、こんな自分にしかできないことがあると思ってます。

実際、修善寺紙に関わってみて、修善寺紙がこれまでこの地でつなげられてきたことの偉大さ、そしてその裏には多くの人の尽力があったことを、大きく感じています。
やはり修善寺紙の長い歴史は、簡単に真似することの出来ない、唯一無二の、誇るべきものです。

そんな修善寺紙を、
現状売り先も全くない中で、どう経済活動を成り立たせていくか。
そしてどのように世界に広めていくか。
これが今の私の最大のミッションです。

修善寺紙に携わって約1年9か月。
ビジネス的にはほぼゼロであった状態から、まず人が来れるように工房を整備し、職人としての腕を鍛え、原材料の栽培を始め、体験をつくり、そして今年度から本格的にプロモーションを始めました。
少しずつですが、お客さんが工房へ訪れるようになり、紙の発注や、コラボでの製品作成も進んできています。
修善寺紙の事業に関する詳しい取り組み内容は、ほぼ毎日、SNS(Instagram、Facebook、note)で発信しております。

ぜひ、修善寺紙の発展を、そして舛田の行く末を
一緒に楽しみながら、見守ってくださいますと幸いです。

これからも、応援よろしくお願いします。

やったります。


舛田拓人


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