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幼児退行仮説

「物心のついていない時期」とはなんなのかというと、「自己の輪郭に気づいていない時期」であるといえる。物心がつくというのは、メタ的な視点の発芽であり、すなわち俯瞰が可能になったということである。俯瞰が可能になるためには、自己と他者の区別がつく、する側とされる側という構造の認識が必要となる。目の前にあるおもちゃは自分ではない、目の前にいる母親は自分ではない、ということが認識できた時、初めて主体的な体験というものが存在可能となりその主観的な体験による記憶の蓄積が始まる。そこを「物心がついた」とするのではないだろうか。私たちは物心つく前はどこまでが自分という領域かわからない。
そして没頭するということは、何かと一体になって自己を拡張すること、あるいは自己とその対象との境目がわからなくなることである。私たちの行うことの多くは、自己と他の境界を曖昧にすることばかりである。道具を使って、道具の分だけ自己を拡張してみたり、愛し合うことで合一に至り自他の境界を曖昧にしたり、まるでせっかく成長していく中で獲得した自己の輪郭をはっきりとは固定したくないかのようである。もしかしたら私たちは、潜在的に幼児に戻りたいのかもしれない。あの頃の、物心つかない、つまり自と他が混じり合っている感覚を取り戻したいのかもしれない。その感覚のなかをずっと浮遊して、「世界の全てと繋がっている」という安心感を求め続けているのかもしれない。しかし成長の過程で自己と他の境界がわかってしまったことで、わたしたち一人ひとりは世界から切り離された。「独り」という感覚を知ってしまったわたしたちが、無感覚、言語化できない感覚の領域において、潜在的にあの子供のころに戻りたいと欲求しているのだとしたら、スポーツで、趣味で、恋愛で、発生しうるインテラクションの数々は、全て童心へ戻ることのできる可能性を持っているのかもしれない。

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