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さいきんかんがえてたことのめも

2024/05/03
友達と喋っていて、互いの共通認識としてあるのは、そして批判する対象はいつも、「自分が自分のことについて分かっていない」ということをわかっていない人間だ。自己理解できてない人間が他人のことについて理解なんかできるわけないし、批判する奴はいつも自分が自分についてわかってないことについてわかってない。
人生を偶然とか運で片付ける前に、偶然とか運が降ってくる場所にそもそもいるかどうかは原因や論理によるものだ。くじ引きでくじの中にそもそも当たりが入っていなかったら?鳩のフンに当たった時、鳩がそもそもいっぱいいるところにいたということだ。偶然を待つ、運を待つことはできる。避けることもできる。ある程度は。その努力にすら思い当たってない人間が悟った気でいるのは、やはり検討違いだろう。

2024/05/09
倫理学の授業を受けて、幸福が黄色や高さ固さといった、それ以上説明しようがない単純観念である可能性も考えなければならないと思った。しかしこの議論は説明の放棄とも言えるから、自分は採用したくないとも思う。そこを説明する営みを無に帰す虚無主義的な考えとも言えると思う。こう言った定義を考えることでどう振る舞っていけばよいかを最終的に考えたいというのが目的なのに、それついて考えることを放棄している気がするからだ。その目的を放棄している。

2024/05/15
友人が信頼できる相手は徐々に弱みを見せていくことで作り上げていくものと言っていた。
その通りだと思った。
信頼は弱みを見せるとかの能動的な行為の後にしかついてこない。
しかし、お互いの弱みを開示していくうえで、お互いが持っている弱みに情報量の差がある、例えば鬱病で希死念慮が凄まじいという弱みと、鼻がコンプレックスで鏡見た時少し気になる、とでは情報量が違う。弱みの情報量が一致していれば、そこがお互いの信頼の頂点として強固な2人の世界ができると思う。つまり、弱みの情報量のレベルに差があるとお互いが納得する信頼感の共有ができない。弱みの情報量が多い側が相手を信頼しきれない。多い側から見ると、相手の弱みのレベルはまだそこまで他人に見せることのできないものではなく見えてしまう。自分は相手以外に見せることができないのにだ。互いを真に100%信頼の頂点の形として信頼するためには、弱みの情報量が一致している必要性があるだろう。

2024/05/31
一体化欲を理性で脱することは自殺になるかもしれない、世間への未練がなくなるから。

2024/06/08
元々人間は生まれたては矛盾に満ちているはずだ。世の中の全てを、時に相反するものの全てを、考えて採択することなく吸収するからである。それを、自我や経験によって、自主的に採択していく。その採択は、一貫性に基づく。したがって自主的に選ばない思考思想が出てきて、一面性を獲得する。その一面性を時に崩す態度があることが、そしてまた再構築する度胸があることが、柔軟ということである。柔軟でないことは、思考の土台が硬いということであり、思考を加速させる。それは、独自性を帯びていくこともあるが、言葉が現実や人に寄り添ったものではなくなってくるとも言える。ある種普遍的なものから実にその人にしか適用され得ない、独りよがりな信条に近づいていく。スピリチュアル界隈の人などがそうだ。自分は、自分の思考と言葉に常に一定の普遍性を持ち合わせていたい。一般的な場所から出発した思想でありたい。

2024/06/19
わたしは悪くないで生きよう的な言説は、その人の罪悪感や責任感を抱えきれなくなったため、誰かに押し付けることで楽になろうとする反応の顕著な例である。とするなら、罪悪感は少なくとも抱えたほうが良い。抱えるキャパが用意できていなければそれと同じになってしまう。

罪悪感を減らすとは、その行為の意味を抽象化させることだ。

組織において、分業体制によって個別に担う意味が曖昧になることは、責任感が薄れることにつながる。意味は責任に直結するのだ。意味がわかっていることは、担う責任がわかっているということだ。人を変えるには、その意味を心から理解させる必要があるのかもしれない。人を変えるには、意味、ひいては責任をどう感じさせるか、ということになるのかもしれない。

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