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古代オリンピックの話

いつかやろうは何とやら。

先日のロイヒつぼ膏のススメで
古代オリンピックの存在を知った。

みなさんはご存じだろうか。
オリンピックが紀元前から行われていたことを。

いつか話のネタにと思っていたのだが、
今回はいつかやろうはよくないかと思ったので。

単純に忘れてしまいそうだという懸念もある。
なのでメモにも書いた。
しかし、メモしたことも
その存在すらも忘れてしまう恐れがある。

必要のない知識は
記憶から零れ落ちていくものだろう。

そう、これは必要のない知識なのだ。


本来ならば。


しかし、noteで文章を書くようになったら、
本来必要でない知識が必要になった。

今までならば、
気になったことすら忘れていただろう。

文章を書く時間と引き換えに、
どうでもいい情報を得て発信しているのだ。

今まで目を向けてなかったものに
目を向けるのはいいことだろう。

知らない世界が広がっている。

それを知ることはきっと残りの人生に
良い影響を与えてくれる。

これまでの人生に気づきを与えてくれるだろう。

そう信じることで、意味を見いだす。



まずはオリンピックの始まり。

近代オリンピックが始まったのは1896年。
その前身となるのが古代ギリシアで行われた
古代オリンピックだ。

「オリンピア祭典競技」

これが正しい名称でオリンピックの起源になる。

祭典となるとなにか神の気配を感じる。

考古学研究では紀元前9世紀頃に始まったとされており、ギリシアを中心に始まった。

ギリシア文化とオリエント文化が融合してできたヘレニズム文化圏の宗教行事だそうだ。


やはり神の気配を感じる。


その気配もあながち間違いではないようで、

全能の神ゼウスなど多くの神々を崇めるための、神域における体育や芸術の競技祭だったようだ。

やはり神だった。


オリンピックが4年に1度開催されるのにも理由があるようだ。

諸説あるようだが、有力な説は古代ギリシアの人々が太陰暦を使っていたからという説だ。

太陽暦と太陰暦の関係で8年という周期が重要な意味を持っていたようで、初めは8年周期で開催されていたようだが、後に半分の4年周期になる。太陰暦では49カ月、50カ月間隔を交互に開催されていた。

また、古代オリンピックはギリシア全土から競技者や観客たちが参加した。
宗教的に大きな意味のあるこの祭典は戦争を中断してでも参加しなければならなかったようだ。

これは聖なる休戦と言われている。
各地から人々は武器を捨てて、時に敵地を通りオリンピアを目指して旅をしたそうだ。
当初は1カ月だった休戦は最終3カ月ほどになったと言われているようだ。

歴史にどうこう言える立場ではないのだが。
そんなに休戦したらもう戦う理由とか、
わからなくなりそうだ。

争わなくていいだろうよ。

争いがなくては発展もしないということは理解しているが、なにか他に道はないのだろうか。

歴史は繰り返す。



中学校の歴史の先生が言っていたのを思い出す。


その先生のモノマネをしていたお調子者の同級生のことも同時に思い出す。





紀元前146年、ギリシアはローマ帝国に支配される。
古代オリンピックはギリシア人以外の参加を認めていなかったが、ローマが支配する地中海全域の国から競技者が参加するようになった。

さらに392年、ローマのテオドシウス帝がキリスト教をローマ帝国の国教と定めたことで、オリンピア信仰を維持することは困難になった。

そして、最後の古代オリンピックが開催されたのは393年の第293回オリンピック競技大祭。

1169年間も受け継がれてきた伝統の祭典は終わりを迎えた。





古代オリンピックが途絶えてから約1500年。


フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵なる人物が「ルネッサンス・オリンピック」と題する講演でオリンピックの復興の構想を掲げた。


そしてその理想は、
次第に世界中の国々の賛同を得ることになる。



それから数年後、


1896年、近代オリンピックの記念すべき第1回大会がオリンピックの起源であるギリシアのアテネで開催された。



とてもとても噛み砕いて、

とてもとても端折った。

それでもとても興味を惹く内容であった。

より詳しい内容はこちらから↓。


近代のオリンピックはスポーツの祭典で世界平和を究極の目的としているらしい。

今やそんなことも知らずにボーッと観戦していた今までの私に恥ずかしささえ覚える。

オリンピックの見え方が少し変わった気がしている。

具体的にどう変わったかと問われれば、
言葉にするのは難しい。
なにか、感覚的な話になってしまいそうだが、
より神聖なものに感じる。
そこで活躍する各国の選手たちをみていると、
正確には思い返すと、何か誇らしい気持ちになる。

私が何か成し遂げたわけでは決してない。
しかし、そんな気持ちになる。
きっと、見る人間に勇気や希望を与えるのだ。

そしてそれは起源を知ることでより大きくなると私は感じる。

ここでは古代オリンピックの競技内容には触れなかったが、リンクから飛んでいただければ見ることができる。

なかなかに過酷な内容もあったので、
気になった方はご自身で確かめてみてほしい。



少しの知識で世界の見え方が大きく変わる。

最近気づき始めた。

noteを始めたという小さなアクションが、

私には大きな変化をもたらした気がしている。


やはり、全ては頭の中なのだと。

そう強く実感させられる。

捉え方次第で、考え方次第で、見え方は変わる。

周りを変えるのは難しいが、

自分を変えるのは、案外容易なのかもしれない。

それも自分次第かもしれない。

難しくするも、簡単にするも。

私は全てシンプルでありたいと考えている。

難しくしているのは紛れもなく自分自身なのだから。

例外もあるが。ほとんどの場合では。


生きていればなかなか上手くいかないこともある。

そんな時こそシンプルにありたい。

考えを言葉に、文字にすると不思議と落ち着く。

自分が何を考えていて、
どうしたいのかが整理できる。

そんな感覚がある。

この場を上手く活用していきたいと思う。


感情を綴ると、脱線しがちである。

得るべき教訓は色々とあるだろうが、それ以上に感情を色々と綴ってしまったのでわからなくなってしまった。

わからなくなってしまったので、
はじめから読み返した。

得るべき教訓は、
何事にも歴史が存在する。

だろうか?


そして得るものは人それぞれで良いということも、
書くようになって気がついた。

ここに正解なんて存在しないし、
全てが正解とも言えるかもしれない。



そして、


フランスのピエール男爵。
とてつもない影響力ではないか?

自身のオリンピック復興の理想を、
その熱意を周囲に伝播させ国を超え、
近代オリンピックとして復活をさせたのだ。


どんなに無謀と思われることも、
言葉にすることで、
それに伴う行動をとることで、
その気持ちの大きさと意思の強さで、

不可能だと思われた事を可能にすることが出来る。

そんな人間の可能性も得るべき教訓かもしれない。


本当はそんな大層な話ではないのかも知れないが。


勘違いや、思い込み、自己暗示だとしても。


それは信じることで力になり得ると思う。

どこか宗教的な話に聞こえるかもしれないが、

マインドは大切だ。



もう今日は、


古代オリンピックの話であり、


マインドの話だ。

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