見出し画像

出会い

過去生の因縁なのか、何かと死にたがっている人とかODしてる人と繋がる事が多い。いや、こちら側から引かれていっているのだろうか、たぶんそうなんだろうな。生まれた時からそういう人がずっと傍に居て、今は尊敬している人がそれに当たる。希死念慮を抱いた事のある人とか、そういう人って何だかみんな魅力的に見えて、ちょっと悔しいな。

「出会い」という言葉はドイツ語では「Begegnung」と言って1970年代、実存主義精神医学の分野では「自己の態度の定め方や発展や見方などに決定的な影響を及ぼすような人と遭遇すること」を意味するらしい。相手が重要人物であるかどうかということではなくて、自分の側にほんとうに相手と出会う用意があるかどうかということが問題にされていた。これは中々、今の自分にとっては痺れる問いである。

その次が1980年代で多分ロジャーズ系統の影響だと思うが「encounter」という英語で、ドイツ語で意味するところよりも退化し「心と心のふれあい、ホンネとホンネの交流」という程度の意味に変わっていた。因みにこれは野田先生の受け売りだ。

「自己の態度の定め方や発展や見方などに決定的な影響を及ぼすような人と遭遇すること」という意味で「出会い」という言葉を使うのなら、私にとっては名越康文と野田俊作の二名だけだと思う。

年を取るごとに、年々頭が固くなっている気がする。昔は相手の言った事がスッと頭に入ってきていたのだが、最近は自分の中の価値判断のフィルターを色濃く通して相手の話を受けている。これが良い事なのか悪い事なのか分からない。良く言えば、相手の話を真に受けて自分で考えない事が無くなったし、悪く言えば、独善的になりつつある。

どうか今の私より若い方(そうそう居ないと思うけど)はそのままで居てね。間違っても大人の言う事なんか聴いちゃいけないよ。若干つむじ曲がりで、若干わがままで、若干お調子乗りの方が良い。

結局のところ野田先生の言ったとおり、思想的な人間の知的骨格は、10代後半から20代前半に作られるものなんだね。そしてその後はそれこそ「出会い」がない限り、一生その証明としての人生を各々が生きていくんだろうなと、この頃は思っている。

げんにびさんという方がおられ私は個人的に大好きで、昨日その方への記事を作ったのだけれど、あの人は天才だと思っている。あんな天才を放っておくのは、一切衆生にとって罪だと思うので、是非ともアドラー心理学への道も歩んで欲しいと個人的には思う。あ、もちろん気が向いたらですよ。というのも、私の知っている人で頼藤和寛(よりふじかずひろ)という精神科医が居て、その人の雰囲気に似ている気がするからだ。

頼藤先生の事はなんと表現すればよいだろうか… とても変わった人なのだが、ひと言で言えば「利口な虚無主義者」である。野田先生の唯一のご親友でもあって、私や野田先生なんかはある種の神秘主義者で、人生に意味があると思っているし、私の意思決定というか生き方が世界全体に影響を与えるのだから、ニヒリズムが蔓延しつつある世の中で人々が幸福になるには、その「かのように」を選択するしかないと思っているのだけれど、頼藤先生は「かのように」の虚無主義者である。これは大変珍しい。

このように、われわれがしでかすあらゆることが無駄になる。「全てには意味があり、この上なく重要なのだ」といった言明も、同様の妥当性をもって提唱できるだろう。しかし、それは願望の表明でしかないがゆえに信憑性を欠く。「何かは無駄かもしれないが、それ以外に無駄でないものがある」というのが聞き慣れた常識だろう。だが、これもまた「何が無駄でないのか」について人々のあいだで見解が統一されず、論争の火種になるだけのことである。結局のところ全てが無駄であると観るほうが、永遠や宇宙をひきあいに出した時に一層真実味があり、また自他に欺かれるリスクに最小にできそうである。

 しかし、これまで何度か指摘してきたように、「全て」が何々であるというのは、実は何も示していないことと同じである。確かに全ては無駄なのだが、その中でわれわれはどんな無駄を選ぶのかというのが問題なのである。そして、無駄と知りつつ何かに熱心に取り組むことができるかどうかが、われわれの人生の質を決めることになる。いや、むしろ「なにをしても無駄」と覚悟していることが、「それでも、なおこれをする」という決断に重みを加える前提でさえある。信者がお百度を踏むことは単に迷信と御利益の期待に基づくだけだが、ニヒリストがお百度を踏むとすればそれには相当深い意図と決断が隠されているはずなのだ。

頼藤和寛 人みな骨になるならば p.230-231

天才の文に触れることが怖くて、というか自分が変わる事が怖くて、まだ頼藤先生の著書は読めていないのだが、相手と会う覚悟を持って、そろそろ対峙してもいい頃かなと思う。多分この人も「出会い」に入る部類の人間だと思うから。

Twitterに頼藤先生のbotがあってその中に、

手がうしろにまわりそうになると「えーい,地位も家族も失ってもともとだ。刑務所だって三食はついているだろう」と思います。

https://twitter.com/Yorifuji_bot/status/1612361716788252672?s=20

と書いてあって不覚にも笑ってしまったが、一瞬で好きになった。