合獣の森 1-1章
これは未来の話だけれども、昔の話でもあり、今の話でもある。
序章:サナと合獣
雪がしんしんと降る中で、何かを求めるような、遠くの誰かを呼ぶようなそんな鳴き声を聞いた。サナはマフラーを巻き直して、サクサクと小さな足跡を残しながらゆっくりと合獣の住まう場所へ静かに近づいていった。合獣(キメラ)の仄かな獣臭が漂い、少し唸るような呼吸の音が辺りを反射していた。
西日が沈もうとする夕闇の中で合獣の檻へ近づくと、母が合獣に餌を与えていた。餌といっても化学的に栄養をコントロールした加工品で、合獣が病気をしないような抗生物質や筋肉を増強するような成分が含まれ、そうした餌をゆっくりと噛み砕くように食べるのだった。
「サナ静かに入ってきなさい」
母の声に従って、檻の扉をそっと開けた。鉄が静かに擦れる音が静寂を切り裂きながら、サナは母の隣にかがむように座った。母の手が合獣の毛並みに触れると、合獣は少し背を伸ばし、唸り声を低く響かせた。その銀色の毛並みは、まるで空に沈む赤紫色の光を映し出すように美しく輝いていた。
「少し触ってみる?」
サナは小さく頷きながら自分の手を母の手と重ねて、合獣の毛をそっと撫でてみた。さらっとした毛並みに確かな温もりが存在していて、愛おしさが溢れ出た。母の手はサナに安心感をもたらし、合獣たちとの絆をより深める道標となった。
「あったかいね、この子の名前は何て言うの?」
母は合獣を優しく撫でながら微笑んだ。
「この子の名前はステラっていうのよ。翼がまるで夜空に輝く星座のように美しく輝いているから、ステラって名付けたのよ。」
「ステラ、とてもいい名前ね」
そういってサナは身体をそっとステラに寄せた。その温度や筋肉の収縮が伝わってくる。これが生き物と心を通わせることなのだと思った。
「ねえママ、どうしてステラは檻に閉じ込めておかなければならないの」
「ステラは合獣だからね、どれだけ心を通わせていると思っても、私たち人間と合獣では生きる価値観が違っているのよ。だからいつ襲ってくるかわからない。突如として人を殺してしまうこともあるのよ、だから厳重に管理しないといけないのよ。」
(・・檻に繋がれて自由を奪われて生きているなんて可愛そう。あの翼で自由に空を飛べばいいのに。)
荒廃と絶望に包まれたこの世界で、雪がしんしんと降り注いでいた。それは、生きる希望を求めるような白い粉雪が、あたり一面を銀色に染め上げていく壮大な光景だった。いつの間にか、西日も沈み、散りばめられた星々が顔を出し、寂寥の大地に微笑んでいるかのように輝いていた。この美しいがらんどうの世界でサナは生きていく、生きねばならなかった。
第1-1章:合獣を育てる家
夕日が西の空に深紅の帯を描きながら、長い一日の仕事を終えてカイルは白い家を後にしようとしていた。厚いコートに身を包み、吐く息が白く凍てついていた。建物を出ると同時にジェフがカイルに走って追いかけてきた。
「カイル、今日の実験結果を見たかい?」
カイルはニヤリと笑みを浮かべた。
「ああ、もちろんさ。合獣は本当に面白い生き物だ。新しいデータは本当に興味深いものだった。あと少しでこの世界に新たな希望をもたらすことになるかもしれない。」
政府は白い家という研究所を立ち上げ、生命科学、遺伝子工学等、科学の最先端の知識を使いながら動物の遺伝子を掛け合わせ、新たな生物を創り出すことに挑戦させていた。カイルたちはその中でも合獣という不思議な生物の研究に没頭していた。
「世界が飢饉に襲われてから、ここでは苔すら生えてこない。今の研究が成功されば、世界中の食糧不足に対処できるかもしれない。」
ジェフは真面目な顔つきではっきりとした口調で答えた。ジェフのこのような態度を見ると、今の研究は間違っていないと安心することができたが、合獣は、世界中で倫理規定によって研究が禁止されており、国家プロジェクトの一環として極秘に研究されていた。そうでなくても、生命というかけがえのない存在に対して、やっていい仕打ちなのか時々疑問を感じていた。
「ああ、俺たちはこの世界を変えるかもしれない。良くも悪くもな。」
カイルは壮大な雪原に向かって、つぶやくように答えた。
この壮絶な世界では、荒廃した土地が広がり、生存がますます厳しいものとなっていた。気候変動により、大地の多くが砂漠に覆われ、吹きすさぶ砂塵が暗闇に舞い踊るようになっていた。小さな島国や海辺の工業団地はそのほとんどが海に沈み、人類は数少ないオアシスに逃れるか、砂塵の影響を受けない、雪深い国へと逃げるしかなかった。僅かに残された大地ですら、汚染によってほとんど土壌は枯れ、食料は大変困難な状況にあった。
「カイル、ぼくらの科学は正しい。必ずぼくらの科学が正しかったと世界に証明できる時がくる。例え世界に非難され続けても、この研究だけは止めることはできない」
「ああ、わかっているよジェフ。この研究も君の気持ちも」
ジェフはうなずきながら、カイルの肩をポンと叩き、その場を後にした。
その帰り道、カイルはスノーバイクに乗って家まで向かった。バイクといっても小型で、立ちながら風を切るように進む。雪の上に白い線を描きながら、風が顔を撫で、目に映る景色は、雪の白さと夕日の赤みが交じり合ったていた。
(・・荒廃しても世界の神秘の本質は変わらないものだな)
トウヤ共和国の中心都市ネーデルの郊外に広がる小さな集落にカイルの一家は住んでいた。雪国は永遠に雪に覆われた美しい場所で、観光に訪れる人も多かった。
一方で、この美しい風景の背後には、環境の劣化と食料不足という厳しい現実が広がっていた。雪国では、冷涼な気温と厚い雪が農作物の生育にとって厳しい条件となっており、短い夏の間にわずかな食料を生産することが一部の地域でできるだけだった。その他は輸入品に頼るばかりだった。
カイルはスノーバイクに揺られながら、この雪国が抱える重たい課題に思いを馳せた。彼の研究が成功すれば、世界に大きな貢献をもたらすと同時に大いなる災いをもたらす可能性も秘めていた。それを知るのはジェフとカイルの二人のみだった。
スノーバイクから降り、家に帰ると、玄関からサナが笑顔で待っていた。例えどんなに研究が上手くいかなくても、彼女の笑顔一つあれば生きていけると思うほどに、彼にとって日常の中で最も尊いものだった。
「おかえり、パパ!」
サナはカイルに飛びつき、腕を腰のほうに回し、お腹に顔を埋めて彼を温かく迎えた。カイルは娘の頭を撫でながら笑顔で答えた。
「ただいま、サナ。今日は一段と元気だね。何かいいことがあったのかい」
「今日は、ママと一緒に初めて合獣を見せてもらったの。近くまでいって触らせてもらったの。あのね、合獣はとってもさらさらであったかいんだよ」
カイルはサナの興奮した様子に微笑みながらも、少し険しい顔つきで玄関を進んだ。
「エマ、今帰ったよ。」
「おかえりなさい、カイル」
エマは、ちょうど食事の準備をしている最中だった。この家は、冷徹な冬の寒さを寄せ付けない厳重な構造を持ち、暖房も十分に効いた暖かい設計になっていた。
電気は、雪から生まれる静電気や、風を利用しており、その電気を使いながらプロフと呼ばれる完全栄養食を簡単に調理していた。プロフは栄養バランスに富み、生存に必要な栄養素を完璧に供給する設計になっている。しかし、その味わいは特筆すべきものではなく、美味しさや不味さの念が消え去ったものと言えた。
生の食材はこの寒冷な地で育てるのが非常に難しく、そのため非常に希少で高価だった。短い夏の間には、少しばかりの耕作が営まれ、この季節に収穫される食材は、家族の食卓において、また地域において特別な意味を持っていた。
どんなに質素でも寒さをしのぎながら家族が食卓を囲むことは、家族にとって最も重要な時間だった。寒さに身を寄せる度に、家族の団欒の暖かさが一層際立つようだった。プロフの食事を共にしながら、彼らは一つ一つ丁寧に絆を編み込んでいた。
サナが首をこっくりとさせ始め、月明かりが雪面を照らしながらも、あたりの闇はより深さを増していた。サナが夢の世界に旅立った後、カイルは深いため息をつきながら、静寂を破るように話始めた。
「エマ、各地で資源が減少し、住む場所がどんどん狭くなっているようだ。そのため、資源の争いが相次いでいて、紛争から逃れるためネーデルにも移民が増えてきている。」
「これも異常気象の影響かしらね。今まであった短い夏もどんどん短くなってきている。このままいくと、ネーデルは冬に閉ざされた街になってしまわないか心配だわ」
「君の不安は最もだ。異常気象という根本的な問題を解決しない限り、この街もいずれは紛争に巻き込まれていくことになるだろう。すでに移民の受け入れについては、住民のデモも大きくなってきている。この街にある資源もそこまで豊かではない。私たちも準備をしておかないといけないよ」
二人は静かな思慮にふけりながら、世界の現実について話した。彼らはこの雪国に住む幸運を噛みしめながらも、外界の厳しい状況に対する認識を忘れてはいけないと感じていた。
二人がベッドに入ると、サナが小さな寝息を立てながら静かに身を潜めていた。
カイルはこの寝顔を見る度に家族を守り、未来への希望を築くことを決意していた。カイルが布団に入ると、サナが囁くように声をかけた。
「パパ、あんまり世界は良くないの。みんなが仲良くできないの。」
「聞いていたのか、サナ。君が心配することは何もないんだよ。大人同士の少し難しい話をしていただけだからね。安心してお眠り。」
横にいたエマとサナの表情を見つめながら、カイルも深い決心に身を沈めながら、眠りに落ちるのだった。
朝は日が昇るのと同時に始まる。雪の地平線の低い角度から太陽が目を覚まし、窓から日光が差し込むと、サナはグーっと手を上に持ち上げ、背を伸ばし目を覚ます。彼女の毎日はとにかく外に出て、雪と触れ合うことだった。
サナの母、エマの仕事は雪国の社会において非常に重要な役割を果たしていた。彼女は「キーパー」と呼ばれる合獣の飼育と管理に専念した仕事をしていた。この仕事は国から厳粛なる責務と信頼を寄せられたもので、雪国社会において高い地位を持つ職業のひとつだった。
合獣というと、様々な種類が存在し、様々な役割を果たしていた。例えば、食用の鳥のような合獣は食糧供給の重要な一翼を担い、人々の生活を支えている。また、人の心をケアし、癒しを提供する可愛らしい小型の哺乳類も存在し、ストレスの多いこの世界において心の安寧をもたらす可能性を秘めていた。
そして、特に重要なのは戦闘用の合獣だった。これらの合獣は緊急時に国を守るために育てられ、特に戦闘用の合獣は「バトラ」と呼ばれていた。バトラは巨大な生き物であり、彼らの力は強力すぎるが故に存在が隠されてきた。彼女の仕事は合獣たちの心身のケアから戦闘訓練まで、多岐にわたっていた。
こうした合獣の生産は雪国において国家事業として行われていた。雪国は厳しい気候と資源の制約から、生活の基盤を支えるために合獣を育てることが重要視されてきた。そのため、国家は合獣の生産、飼育、管理に対して積極的な政策を推進しており、禁忌とされながらも現実には合獣を輸出し、外貨を得ることで、トウヤ共和国は大きく発展してきた。
国家事業としての合獣の生産には様々な部門や専門家が関与し、飼育技術や繁殖プログラムが継続的に改善されている。合獣の生産、改善に関わるのがまさにカイルの仕事であり、これにより合獣の種類や特性に合わせて生産を調整し、国内の需要を満たすための体制が整備されてきた。戦闘用の合獣であるバトラの育成は特に重要視され、その優れた力が国の安全保障にも大きな寄与をしてきた。
国家が合獣の生産に取り組む背後には、雪国の過酷な環境に対抗し、国民の安全と福祉を守る使命があった。合獣はその一翼を担い、国家事業としての役割を果たしていた。
エマは「キーパー」としての使命を全うすることに大きな誇りを感じていたが、工業的な生産体制と倫理的な課題を合獣に感じずにはいられなかった。
「サナ、あなたもそろそろ合獣の扱い方を少しずつ学んでいかなくてはいけません。ただ触れ合うだけでなく、その役割や危険性も理解しないとなりません。」
朝の一段と冷たい空気の中、サナとエマは人間と同じようなプロフを与える。サナは母の指示を受けながら、慎重に合獣たちに食事を差し出した。
「この食事は合獣たちの健康を支えるために特別に調合されたものよ。それぞれの合獣に合わせて栄養バランスを調整してあるのよ。時折、合獣が病気にならないように薬を混ぜ込んだりもするのよ。」
サナは真剣な表情で母の言葉を聞きながら、慎重に仕事に取り組んだ。
バトラは、他の合獣の小屋から奥の檻に繋がれていた。檻は頑丈で、雨雪が耐えられる程度の煉瓦造りの屋根をかけていた。
バトラの首には人間の安全を確保するために特殊な首輪が使用されています。この首輪には電気信号を流す仕組みが組み込まれており、危険な状況が生じた場合、遠隔から電気信号を送ることで合獣の動きを制御することができた。
「いいかい、サナ、決してこの制御装置を離してはいけないよ。合獣は何もしなければ大人しいが、あれでいて気高い生き物だ。こちらが敵意を見せればすぐに襲ってくる。制御装置はもし人を襲ってきそうになったら使うんだ。」
サナはバトラに向かって、音を立てないようにそっと一歩を踏み出す。
「そうだ、その調子だよ。そしてある程度近づいたらお辞儀をする。5mくらい近づいて警戒されなければ近づいても大丈夫な証拠だよ。そしたら思いっきり撫でるといい。ただし、そこで警戒されたら絶対に近づいてはならないよ。」
サナはそっとお辞儀をしながら、足を前に進める。母の「よし、いいよ」という声が後ろから聞こえ、バトラの少し甘ったるいような匂いがツンと鼻に押し寄せてくる。
プロフの入った皿をそっと差し出しながら、「どうぞ」といって差し出すとバトラはゆっくりとエサを食べ始めた。そしてその背中を優しくさすりながら、寒さでかじかんだ手をゆっくりと温めた。
「これが合獣の体温かあ」
体温、匂い、体を揺らすような筋肉の動きから、呼吸をする音まで五感でバトラという存在を強く感じた。これがバトラと呼ばれる気高く、美しい合獣なのか。サナは、仕事の危険性を強く認識したが、合獣と触れ合うことに強い感動を覚えた。
「サナ、合獣と関わることはいいけれども、決して愛してはならないよ、合獣を愛することはキーパーとして最大の禁忌だからね。」
「どうしてこんなに美しい合獣を愛してはならないの」
「それは大人になったらきっと分かるよ。今はお母さんのことを聞いてね。約束できる?」
サナたちは小さく頷きながら、ゆっくりとその小屋を後にした。
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