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金曜の夜、「葦」を想う。

「人間は考える葦(あし)である」

かの有名なパスカルの言葉だ。そう、あの有名なパスカル。
僕は知らないけど。

この言葉、誰もが一度くらいは聞いたことがあると思う。
では、この言葉の意味をあなたはご存知だろうか?

「葦(あし)」とは、水辺に育つ細い植物のこと。
人間は、自然から見たら葦のように弱々しい存在だ。
しかし、葦と人間には大きな違いがある。
それは、人間は「考える」ことができる、ということ。
だから人間は葦と違って、すげえんだぜ。

ということを言いたかったらしい。

不意に思い付いた言葉だが、今日僕が書きたい内容に沿った、
なんともタイムリーな言葉である。

大自然の猛威

11年前。
人は、大自然を前に「葦」であることを実感した。

いくらイケメンのゴリラがいても、
人とゴリラは夫婦になれない。

それと同じ。

人間という「葦」は考えることができるかもしれないが、
大自然の破壊力を前に無力だ。
どう転んだって、葦でしかないのだから。

ましてや地球という自然に間借りしているだけの僕らは、
自然を切り捨てて生きることはできない。

僕らは、
僕らの命の源である「自然」と、
僕らにとっての死神でもある「自然」に包まれて生きるしかない。

そう。
考えることができてしまうがゆえに、
僕らは生き死にに一喜一憂して、
駄々っ子みたいな自然という存在の手を取り、
生きていく。

大切な人の命を奪った、大海原。
大切な人の命を奪った、波。
大切な人の命を奪った、大地。

それらを毎日見上げたりして、
僕ら人間は生きていくしかない。

震災から学ぶこと

今を生きる僕らは、東日本大震災を生き抜いた。

「理不尽に命を奪われた人の分も僕らは生きるべき」

……なんてことを言う気はない。

もちろん、
大切な誰かの分も生きる、というモチベーションは素晴らしいと思う。
だから否定する気もないけれど。

ただ、僕らはあくまでも自分の人生を生きているから、
顔も知らない人の分も生きろなんて言うのは、かなり違和感を感じる。

じゃあ、この震災から何を学ぶべきなのか。

僕は、
「自分の命が明日も当たり前にあると思うな」
ということを学ぶべきだと思っている。

これは一例だが、
僕は仕事で、基本的に自分が担当する業務内容は
誰でも見れるようにしている。手順も極力、シンプルかつ明確にしている。

大切な人には、
僕がいついなくなっても大丈夫なように、準備をさせている。
自分の持ち物も、極力増やさない。

僕は自分の命が、
明日も当たり前にあるとは思わないように生きている。

当たり前なんて、ない

僕は東日本大震災の時に漠然と、
命は当たり前じゃないと思うようになった。

そして四年前。僕はさらにその思いが強くなる出来事に遭遇する。

四年前。
当時勤めていた会社の社長が、急逝した。
詳しい死因などは分からないが、
普通に夜眠りについて、朝、亡くなっていたそうだ。

そう。

今日眠って、明日の朝。
普通に起きることだって、当たり前なんかじゃない。

なんて言うんだろう。
後ろ向きに考えてほしいわけじゃない。
必要以上に、死を怖がれと言いたいわけでもない。

ただ、死を踏まえて生きようぜ、とカジュアルに言いたい。
それだけだ。

死の間際、
人は何を想うのだろうか。

それは分からないけれど。

僕らは僕らなりに、
自分の人生を生きていいはずだ。

そして、未来へとバトンを渡していけばいい。
思うがままに、笑ったり泣いたり、
悲しんだり楽しんだりしながら。


春には新緑。
夏には深緑。
秋には紫色。

季節とともに変化しながらも、
凛とたたずむ「葦」のように。

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