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深夜の牛丼屋にて。

金曜日。
今日も僕は、僕という人間を曝け出す。

よかったら、ホットミルクでも飲みながら読んでほしい。
どうせ大したことは書いていないのだから。


久々に駆け込んだ、牛丼屋。

最近僕は、シフト制の仕事のヘルプに入っている。
いつもは8時17時の仕事だが、
色々あって今日まではシフト制の勤務。

シフト制。
それはつまり、夜勤も入る。

僕は久しぶりの夜勤で体調がバチボコに悪くて、
元々担当している仕事もやりながらヘルプ先の仕事をこなしていた。

プライベートなところも、はっきり言って最悪の状況。

そう。

だから僕は、めちゃくちゃに疲れている。

メンタルも崩壊寸前というか、
無事なのか手遅れなのかすら、もはや分からない。

そんな僕が、仕事終わりである深夜に駆け込んだのは、
牛丼屋だった。


深夜営業の店って、いいよね。

「深夜営業の店」。

この魅力がわかる人とは、
僕は間違いなく良い友達になれると思っている。

何言ってるか分からない、と言う人のために説明しよう。

深夜営業の店は、まず人が少ない。

そして大体、なんかよく分からない感じのお客さんが多い。

僕のような夜勤の仕事をしてる人。
水商売などの夜のお仕事をしてる人。
飲み屋帰りの人。
家に居づらくなった感じの人。
やさぐれ感満載の人。
説教をたれる人と、その取り巻き。

一般的には家にいる時間帯に、なんらかの事情があって外にいる人たち。

これは僕の偏見も多分に含んでいるが、
なんかもう、まともじゃない人が多い。


ひっそりと生きてる深海魚みたいな人たちや、
いるべき場所が分からなくなった流浪の民が、
深夜営業の店には、集まる。

そう。



僕は。




そんな空間が大好きでたまらない。






お互い、何かを話すわけじゃない。
ただそこにいる。
誰かがいる。

店員さんがいて、
僕らに温かい料理を提供してくれる。

水を飲める。

明るい。



めんどくさい人間関係も何もかも無視して、
素の自分で存在していい場所。



たったそれだけの場所が、
何よりも愛おしく感じるんだ。



深夜営業の店にだけ存在する、
「誰かがいる日常」。

僕は大好きだ。



居場所とは、何か。

「居場所」と言うものについて少し触れておきたい。

僕らはみんな。
何かしらの居場所を持っている。


それは家族という共同体だったり。
自宅やアパート、マンションだったり。
会社という場所だったり。
配偶者というパートナーだったりする。

だが。

それぞれの居場所が全て心地の良いものかと言ったら、そうでもない。


肉体的な居場所とは別に。
人には「心の居場所」が必要だ。




今では駆逐されたと言われるトー横キッズ。
行き場のない人が集まろうとした心理が僕にはよく分かってしまう。

誰かを想い、誰かに想われ。
自分という存在が、
当たり前に居てもいいと思える場所。
誰かに必要とされる場所。

それが人にはどうしたって必要なんだ。

彼ら彼女らは、
行政や民間の支援団体が準備したシェルターを忌避したという。

自分自身が納得した場所に、
人は「存在していたい」と思ってしまう。

善や悪ではなく、自分自身が納得できるかどうかで。

もちろん犯罪を助長する気は一切ないし、
そういった心の隙間に入り込んで悪さをするような輩は
爆発してしまえば良いと思っている。


だからこそ、この問題は難しくて。

図らずもトー横キッズの話に波及してしまうが、
気持ちが収まらないので吐き出したいと思う。


心のありかと、居場所

人は心で生きている。
肉体とともに。
社会と、その秩序という枠組みとともに。


しかし、心は圧倒的に自由だ。


誰かをぶん殴ってやりたいとか、
アイツどっか行けば良いのに、とか。
あの人とチューしたい、とか。

人はいくらでも想像する。

そんな「心」を制御するのが「理性」。


そしてその理性をぶっ壊すのが、
それぞれが置かれている「環境」だ。



ネグレクト。
家庭内暴力。
性的虐待。



そんなことを平然とやってのける悪魔と一つ屋根の下。

そりゃあ理性だっておかしくなる。

心の拠り所、つまり居場所が欲しくなって当然だ。
居場所でなくとも、その場所からとにかく遠ざかりたくなって当たり前だ。


今の僕は歌舞伎町という場所に縁はないし、
実際のところどうなっているかは分からないけれど。

トー横という場所があろうとなかろうと、
居場所を求める人たちの数が変わるわけじゃない。

だから、きっとどこかにそういう場所はできていると思う。


繰り返すが僕は、
犯罪を助長する気は一切ない。



ただ。
居場所を求める気持ちが、
人よりちょっと理解できるだけ。

そして、
子どもたちをなんとか救おうとする団体の、
真っ直ぐな大人たちの想いも、少しだけ分かる。


なんていうんだろう。
この気持ち。




テレビで、ウクライナが爆撃されている映像を
見るときの気持ちに似ているんだ。


最後に

今日も相変わらず、気持ちに振り回された駄文だった。

でも、こんなことを思っちゃったんだから仕方がない。



「居場所」は。
人にとって絶対に必要なものだと僕は確信している。

だからもし、自分には「居場所」がないと感じるならば。
それを見つけなくてはならない。



思いっきり綺麗事で言うならば、
「自分の居場所を探し求めることが人生」とも言える。


肉体的、社会的、公的な。
人として存在する場所と。

心の居場所。











その二つが合わさった居場所を見つけることを、
きっと「幸せ」と呼ぶのだろう。





しかしながら、その居場所を見つけることは簡単じゃないし、仮に見つけても未来永劫幸せだとは限らない。

居場所は、向こうからやってこない。

自分の足で勇気を出して踏み込まなければ、
その場所にたどり着くことはできないんだ。


僕らは「人間」という種族のつながりがあるのだから。

どれだけ個性が人それぞれだとしても、
同じく「心の居場所」を求める気持ちを持っている。


僕にとってはその一つが、深夜の牛丼屋。
他のお客さんがそういった気持ちで利用しているかは関係ない。





居場所がないと感じる人が一人でも多く。

安心できる場所を見つけることを、僕は願っている。




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