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立夏の嵐。

さて。
今日は金曜日。

僕は僕の気持ちを、
今まさに感じるがままに。
この場所に留め置く。

どうか、ホットコーラでも飲みながら、
読んでみてほしい。

どうせ大したことは、書いていないのだから。


また一人。

一昨日、飛び込んできたニュース。
著名人の自死のニュースだ。

僕は少し前から、「死という概念」のことばかり考えていて、
そんな僕にとって、このニュースは心をえぐり取られる思いだった。


著名人の死をネタにこれを書いていると思われるのは
はっきり言って癪だけど。

僕は誰に嫌われたっていいから、
僕の思いをストレートに今、綴る。

一応書いておくが、
この記事は著名人の死とはなんら、関係のないもの。

僕の個人的な体験と思想に基づいて、書いている。


自死は、いけない

はっきり書こう。
僕は、「自死」ほど馬鹿げた行いはない、と思っている。


野良とはいえ、
カウンセラーと名乗る僕が言うことではないことは
重々承知だ。

それでも。
僕ははっきりと書く。

「自死」ほど、馬鹿げた行いなんてない。


僕が感じてきた、希死念慮

カウンセリング紛いの行為をしていて、
僕は何度も、相談者の「希死念慮」と向き合ってきた。

「希死念慮」とは、簡単に書くと自殺願望だ。

それと向き合うのは、はっきり言って、しんどい。
だって生き物には「死」以上の結末はないのだから。

僕はそれをちらつかされると、
本来自由であるはずの相談者の思いを、
否定しなくてはならなくなる場合もある。

これがすんごくつらい。言葉にできないくらいに。

もちろん、
自死はいけない。ダメ、ゼッタイ。

そんな簡単な答えはNG。

なぜ死を選んではいけないのか?
あなたは何をしてくれるのか?
何もしてくれないじゃないか!

程度にもよるが、
そんな答えが返ってくることがほとんどだ。

だから、
「死」を突き放すのではなく傍に置いて、
相談者と向き合わなくてはいけない。

まるで、三者面談のように。

物言わぬ「死」という概念が見つめる先で、
相手の心に寄り添うのだ。



自死とは、何か。

カウンセリングのことを書いたが、
この場は僕の思いを吐き出す場所だ。

だから。
ここからは僕の身勝手な主張。


人の命を奪えば、それは「殺人」だ。
たとえ自分の命だろうと、それは同じだと僕は思う。


だからやってはいけないこと。
そこにいかなる理由も存在しえないと僕は考える。


これを書くのは、
本当はとても難しいのだけれど。
僕はいち社会人の責任を持って、
書かせてもらおう。


はっきり言って気持ちはわかる。
痛いほど。

僕も、考えたことがないかと言われたら嘘になるし、
誰だって消えてしまいたいと思うことぐらいは
多分あっただろう。


でも。
思うにとどめなきゃいけない。



実行してはならないんだ。






僕はそう思う。


人は失って、はじめて気付く

悲しいかな、人は。
失うまで気づかないことが多い。

今もどこかで、
誰かが誰かに暴力を振るい、
誰かが誰かを叱責し、
誰かが誰かに暴言を放っていることだろう。


その結果、最悪の事態になるかもしれないのに、だ。

失われた命は2度と戻ってはこないのに。

己の力を誇示し、
自らの心身を守らんと他人をコテンパンにする。


僕は、それが人の性であることを知っている。

だからこそ、
「人」と「死」を語るのは途方もなく難しい。


今の僕の思いを表すほどの文章力は、
僕にはまだない。

実際に伝えたいことの100分の1くらいしか
この場所には書けていないけれど。

僕は作家としての大きなテーマとして。
「命」を掲げている。


いつかまた書くことだろう。
しつこく。粘っこく。







だって、当たり前のことだろう。
失った命は、永遠に戻ることはないのだから。







僕が何かを伝えさえすれば、
踏みとどまる命の灯火があるのかもしれないのだから。







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