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野村克也さん。

本日、野村克也さんがお亡くなりになりました。
選手としても指導者としても、とてつもなく偉大な功績を残された方だということは、ここで私が語るまでもありません。以前このnoteでもお話しさせて頂きましたが、そもそも野球が嫌いだった私を誰よりも野球好きにさせてくれたのが野村克也さんでした。

嫌々父に連れられ初めて見たプロ野球が南海ホークスの試合でした。大阪球場で見た野村克也さんのホームランです。まだアニメの中にヒーローを求めていた幼い私にとって、このホームランにはまさに瞬殺されました。「人間もヒーローになれるんや!」と初めて思ったのです。

それ以来、私は野村克也さん、南海ホークス、そして野球が大好きになっていきます。

恐らくあの日、野村さんのホームランを見ていなければ、こんな素晴らしいスポーツを好きになることはなかったと思います。それは裏を返せば、私が今のこの仕事にも就いていなかったことになります。  

野村さんとの接点はそれほど多いわけでは、ありません。しかし、一方的に私の方から思い入れを抱いていました。これは、野村さんのレコードです。



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私が小学生の頃父がジャズ好きだったので、一緒について行ったレコード屋さんで見つけたこのLPレコード、駄々をこねて買って貰ったのを覚えています。そのジャケットに私が2回目のロッテ在籍時、野村さんが阪神で監督をされているときにサインを書いて頂きました。

「ようこんな古いの持ってたなあ」と笑顔で仰っていました。しかし、私は実はこのもっともっと前にサインを頂いていたのです。遡ること、小学生の頃、大阪球場での試合後、野村さんを出待ちしてサインを頂いたのです。

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当時、ナイター後の出待ちともなると、小学生にとっては帰宅が相当遅くなり母に烈火のこどく叱られたのも今となっては良い思い出です。

あの頃、何度も野村さんの筆跡を真似して、自分でサインを書けるようにまでなっていました。それほどまでに私に影響を与えてくださったのです。実のところ、一方的に恩人とすら思っていました。

それまで「根性、根性」一辺倒だった日本の球界において、野村さんは「シンキング・ベースボール」を掲げ、ドン・ブレイザーコーチとデータを重視し、根拠のある野球を実践されました。実に画期的なことでした。こういうことに気づかせてくださった野村さんはまさに恩人と呼ぶに相応しいのです。


イーグルスでコーチをさせて頂いているときに野村さんが私に教えてくれたことにこんなエピソードがあります。野村さんは「俺は、お前がプロに入ってくる大昔から鍛えてケガを治してきた」と仰ったのです。

当時はみんな怪我をすれば、自分は何もせずじっとして、ただ治療やマッサージを受けるだけだったそうです。しかし、野村さんは肘を痛めた時、治療と並行して肘の周辺を鍛えたのだそうです。だから長くプレーできたのだ、と。

このお話を教えてもらった時、ハッと子供の頃熱中して読んでいた「ドカベン」の1シーンを思い出しました。確かに肘を痛めた里中投手に主人公の山田太郎は「南海の野村監督は、肘を鍛えて治したんだ」とアドバイスし里中投手が肘を鍛えるシーンがあったのです。

またこんな嬉しい思い出もあります。イーグルスで野村さんが監督になった一年目に私もコーチに就任する訳ですが、野村さんと言えば「ボヤキ」で有名ですが、私は久米島のキャンプ地で、ある理由でみんながいる前で「お前は、まだまだ伸びるわ」と褒めて頂きました。憧れの野村さんに褒められて、あまりの嬉しさに泣きそうになったことを昨日のことのように覚えています。

こんなこともありました。運動嫌いな野村さんが何かのインタビューで「亀はあまり動かずジッとしてるから長生きするんや」と言った後に、「こんなこと言うたらまた立花に怒られるわ」と言ったのです。私がこの大監督を怒るなんて、あり得ないことです。せいぜい、私が言うとしたら、「しっかりウォーキングはしてください!」程度です。

本音ではいつも野村さんに長生きしてもらって、多くのことを野球界に残して欲しいと言う気持ちがありました。そういうつもりでかけた言葉なのですが、野村さんはなぜだか「叱咤」と捉えてきっちり私の言葉を覚えてくれていたのだと嬉しくなりました。

野村さんは天国に旅立たれ、野球界の大先輩たちとふたたび野球するのでしょうね。是非、天国から野球界を見守ってください。本当にありがとうございました。野村さんがいなければ今の私はありません。心よりご冥福をお祈りいたします。
        
                           立花 龍司

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